外務省の報道発表によれば、5日後の日曜日31日にインドのモディ首相が来日し、9月3日まで滞在するという。その間、天皇と御引見する一方、当然のごとく安倍首相との会談も予定されているが、両首脳の大きな狙いは「日印原子力協定」締結にある。
一昨年の師走、内閣総理大臣に再就任した安倍は、原発事故が収束していないにもかかわらず、首相独断で原発推進を提唱。外遊するたびに経済界のお偉方に秋波を送り、トップセールスマンを気どり、各国に原発技術を売り込んだ。サウジアラビア、アラブ首長国連邦、トルコと原子力協定を結び、まさに我国の首相は“死の商人”となった。
首都圏反原発連合がリードする、毎週金曜日夕方6時から開催される首相官邸前抗議集会―。
インド・ニューデリーに本部を構えるCNDP(インド各地約200の反核団体が加盟する全国組織・核軍縮平和連合)のスタッフが来日。首相官邸前で「原発反対!」「インドに売るな!」「原発輸出反対!」などとシュプレヒコールを繰り返したのは7月下旬からだった。
そして、69回目の敗戦記念日を1週間後に控える8月8日の金曜日。すでに2週間近く滞在していると思われる、CNDPのスタッフの1人のスランダラムさんがマイクを手に叫んだのだ。
「今日までフクシマに行き、イイタテやフタバの仮設住宅に住む人たちに会ってきました。もう3年以上も苦しい生活を送っていました。同じ原発事故がインドで起これば、もっとひどい状況になると思います。インドにおける社会保障は劣悪で、リハビリテーション施設もありません。インド政府は腐敗しています・・・」
スランダラムさんは英語で、ときおり日本語をまじえながら力強く訴えた。続けていった。 「インドの子どもたち、女性たちの命を守らなければなりません。今、インドは原発建設に対し、農民たち、漁民たち、弱い立場の人たちが立ち上がっています。抗議活動をしているのです。我われの非暴力的な運動に対し、インド政府はまさに暴力的な弾圧をかけてきています。この行為は許せません。
1998年にインドは、核実験をやっています。ところが、そのようなインド政府に、ニホンは協力しょうとしているのです。このことも許せません。3・11後にニホンが原子力をインドに売りつけることは、我われインドにとってはショッキングなことです・・・」
スランダラムさんの訴えは約10分間に及んだ。最後にこういった。 「我われは今年1月にインドに安倍首相がやってきたとき、インド各地で抗議行動を起こしました。そのときに我われが掲げたスローガンは『安倍首相、あなたは歓迎します。でも、原子力はお断りします!』でした。同じことを8月末にインドの首相が来日したとき、同じスローガンをニホンの皆さんに掲げて欲しいのです。日印原子力協定に反対しましょう。お願いします。原発輸出反対! インドに売るな! です」
私たちは叫んだ。 日印原子力協定粉砕! もうすぐ8月も終わり、本格的な台風シーズンを迎えることになるが、異常気象のためだろう、すでに今年も水害で多くの尊い命が奪われた。周知のように広島土砂災害では死者・行方不明者が80人を超えている。哀悼の意を捧げなければならない。
それらの悲報が伝えられるたびに私は、5年前の夏に出版した『伊勢湾台風 水害前線の村』(ゆいぽおと刊)の取材のため、月に1回の割で名古屋市を中心に、愛知県に出向いたときを思いだす。
1959(昭和34)年9月26日の夜だった。主に愛知・三重を中心とした東海地方を襲った台風15号=伊勢湾台風により、5000余人の命が濁流とともに消えた。多くの遺体は腐乱し、土手で野焼する遺族もいた。
私が小学4年生のとき、現在の天皇・皇后が御成婚式を4月に挙げ、初めて昭和天皇・皇后がプロ野球を観戦する天覧試合(巨人対阪神戦)が6月に挙行された年にやってきた、戦後最大の災害となった伊勢湾台風に着目。50年目を迎える3年前の2006(平成18)年夏から取材を開始した。遺族は当然として、台風と真っ向から対峙した当時の名古屋気象台の台長や職員を始め、名古屋港管理組合や新聞記者など多くの人たちから話を聞いた。
それらの人たちを取材中に、ルポライターとして取材活動をする私にとって、戒めとなる肝に銘じる言葉を見つけることができた。それは中日新聞社に入社して4年目の25歳のときだった。風速40メートル以上の暴風雨にもかかわらず、果敢に伊勢湾台風を取材したカメラマンのAさんが発した言葉だ。
私の取材に応じたときのAさんは、すでに73歳を迎えていたが、嘱託として中日新聞社に在籍。惜しみなくアドバイスをし、取材先まで紹介してくれた。その際の言葉が心に沁みた。Aさんは次のようにいったからだ。
「死者5000人以上を出した伊勢湾台風から2年後の、第二室戸台風ときだった。あのときも被災地を空から撮影したんだが、ついつい『伊勢湾台風よりも、大したことがないな』と思ってしまった。また、昭和43(1968)年の飛騨川バス転落事故では100人以上も乗客が亡くなっているが、その後は、ちょっとした交通事故は記事も小さくなってしまった。大きな災害や事故が起きると、次のニュースの価値観が変わる・・・」
そして、視線を宙に浮かしながら続けた。 「でも、何人亡くなろうが、人間の命が失われることに変わりない。人間の命も、親族を亡くした遺族の悲しみも平等だ。私たち報道する側は、そのことをきちんと頭に叩き込んでおくべきだ・・・」
Aさんは私の出版を心待ちにしていたが、その前に鬼籍に入ってしまった。 しかし、あれから5年、原発禍のフクシマを取材する私の心にはAさんの言葉が生きている。この9月26日で伊勢湾台風から55年が経つ。
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