GWが終わる5月初旬から田植えが始まり、約2週間続く。私が小学生だった昭和30年代の懐かしい思い出が甦る。
毎年、この時季になると小学校高学年以上の子どもたちは登校せずに田植えを手伝い、人手が足りない農家には中学生や相馬農業高の生徒が助っ人としてやってくる。昼になると畦道にむしろを敷き、空を飛び交うツバメを眺めつつ、みんなしてオニギリを頬張り、畑からもいできたばかりのきゅうりを手に食べる。今では見られない牧歌的な風景が広がっていた・・・。
6月初旬。南相馬市小高区で3町3反(約9900坪)の田んぼを耕す、仮設住宅住まいの遠藤孝さんを訪ねた。 「昭和13年生まれだから、今年で私は77歳の“セブン・セブン”になるけど、原発事故で生活は奪われたし、何もいいことはない。『東電から毎月10万円もらっていいなあ』なんてね、私ら被災者の苦しみを知らずに馬鹿なこという連中もいる。東電や政治家も同じで、生活を奪われた者の悔しさや哀しさなんか理解できないんだろうな。支援を打ち切ることしか考えない・・・」
遠藤さんは開口一番そういい、私を前に現在の胸の内を語った。 一昨年から原発から30`圏内に位置する南相馬市は試験栽培を実施。初年度は収穫米の基準値(1`当り100ベクレル)がND(検出されず)だったため、3年目の今年は昨年の約7倍の約700f(約211万坪)の田んぼが作づけされたという。
そのため原発から北に14`、海岸から2・5`地点に家屋と田畑を持つ遠藤さんは、昨年は塩害で荒れ地となった3反の田んぼを整地して作づけ。さらに今年は4反に増やした
「やっぱり、3町3反の田んぼに作づけできないと先祖に申し訳ない。幕末に相馬藩士から百姓に転じて私で4代目だしね。百姓としては田植えができないのが何よりも辛い。だから、たった4反でもこうして田植えをした田んぼを見るのは嬉しいもんだ。まあ、放射能に汚染されていない地下水を汲み上げているため、全袋検査は基準値を大幅に下回る2〜3ベクレルだった。去年は1反当り9俵(約540`)獲れて、備蓄米として農協が買ってくれた。こうして毎朝4時起きして、仮設(住宅)から出向いての農作業だが、稲に実が入る頃になるとイノシシやカモに食い荒らされる。田んぼの周りを電線で囲んで電気を流したり、糸を張り巡らせても食ってしまう。ごせやけるんだ(腹が立つ)・・・」
やるせない表情で語る原発事故後の遠藤さんは、当然のごとく避難生活を余儀なくされた。宮城県の丸森町、茨城県の土浦市、埼玉県の上尾市を転々とし、さらに神奈川県の相模原市で約1年半にわたり奥さんとともに避難生活を送った。現在は原町区の仮設住宅に住んでいる。
「原発を恨んでいる。でもな、仮設でゴロゴロしていてもしょうがねえ。私ら百姓は稲の育つのを毎日見ないと、生きてる実感がない。だから、他県で避難生活を送っているときは、農作業をしている夢を見た。田んぼは毎年米を作らないと荒れてしまうから・・・」
何度も「原発事故が憎い」と呟いた遠藤さんは、私を田んぼを見渡せる高台にある自宅に案内した。昭和28年建てられた立派な家は除染中だったが、庭には花が咲き誇っている。原発事故前の年までは夏休みともなれば親戚の子どもたちが泊りにきて、ホタル狩りに興じていたという。裏山ではワラビやゼンマイなどの山菜がふんだんに採れた。
「でもね、4年も住んでいないために家ん中は滅茶苦茶なの。雨漏れもしているし、畳はずぶずぶだしね。ネズミもいる。将来は農家民宿なんかをやれればといいと思ったけど、改修するには2500万円もかかるって。もったいないけど、解体することにしたんです・・・」
遠藤さんの傍らで奥さんは、溜息をつきながら私に説明した。 私は5月末から6月初旬まで福島に滞在した。その間、地元紙・福島民友が報じた「ツバメの巣からセシウム」のタイトルが付けられた記事に注目した。鳥類学を専門に研究する、山階鳥類研究所(千葉県)が福島県や宮城県、東京都など13都県の原発事故後につくられたツバメの巣を調査したところ、福島県の放射性セシウム濃度平均はどの地域よりも高く、1`当り約7500ベクレル、最高は9万ベクレルだったからだ。2番目は千葉県で平均約3200ベクレル、最高1万2900ベクレルだという。ツバメの巣は土やわらで作られている。
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