南相馬市原町区を流れる新田川の鮭漁は10月初旬から始まった。
「例年なら9月下旬開始だけど、9月の大雨で簗(やな)をかけることができずに1週間ほど伸びてしまったべ」 そう渋面を見せて、知人の新田川鮭蕃殖漁業協同組合長のEさんはいった。
すでに2年8ヵ月前の3月25日に配信したルポ4で書いたが、毎年2月下旬から3月にかけて放流された鮭の稚魚は太平洋でもまれて大きくなり、4年後に故郷の川に帰ってくる。このことは1塁、2塁、3塁と進塁し、ホームベースを目指す野球に似ているといってよい。鮭も野球もホームインを目指すのだ。
しかし、4年前の春は3・11に見舞われ、その直前に放流された稚魚は太平洋に出る前に津波と瓦礫の渦に巻き込まれたため、4年後のこの秋に無事にホームインできるか危ぶまれていた。それが鮭漁をするEさんたち組合員の最大の心配事だった・・・。
10月中旬。私は朝の5時過ぎの夜明け前に新田川に向かい、簗がかけられた場所に行くとすでに漁は始まっていた。 「大量とはいえないけど、昨日は150匹ほど捕ったべ。今日も120匹以上は捕れんじゃあねえの・・・」
捕った鮭の頭をこん棒で殴りながらEさんはいい、顔馴染みの組合員のWさんもいった。 「4年前の春に放流したときはおっきい稚魚でも3cで9aほどだったけどな。こうしておっきくなって戻ってきた。捕ってぶん殴るのは可哀相だけどな、それも鮭のよ≠フ運命だ・・・」
苦労の末にホームインし、これから産卵をしょうとしていたところ捕獲され、あげくこん棒で思い切り殴られる。このへんはホームインするたびに仲間とのハイタッチで喜ぶ野球とは違うのだが・・・。ちなみに今年も保健所で放射線量を調べた結果、「ND=not
detectable(検出されず)」だったという・・・。 鮭漁を取材した日の午後、実家の隣のコンビニ前でタバコを吸っていると声をかけられた。
「岡さんじゃねえの。いつ帰ってきたんだ・・・」 2年前の夏に出版した『南相馬少年野球団 フクシマ3・11から2年間の記録』の取材でお世話になった父母のSさんだった。私が取材したときの小学6年生の息子のR君は、身長139a・体重39`と小さかったが、キャッチャーで4番打者。私に真顔で尋ねてきたことがある。
「どうすれば背は伸びるんだ? 教えてくれ」 そういうR君に私はいった。 「そりゃあ、無理してでもいっぱい食って、思い切り野球をすることだな・・・」
そのR君は原町3中に進学し、すぐにレギュラーとなり、4番打者として活躍。昨年秋の県新人大会ではみごと優勝した。 「R君、身長どのくらいになりました?」
そう尋ねた私に、父親のSさんはいった。 「私と同じくらいですけど、私は165aですからね。あと10aは伸びてもらいたいです」 「来春卒業したらどこの高校を希望しているんですか?」
「一応、小高工業を入りたいといっているんですけど、坊主の頭で入れますかね・・・」 そういってSさんは苦笑した。 その日の夕方、実家から徒歩で5分ほどの南相馬市運動公園の市営球場に行き、R君が入学を希望する小高工野球部の練習を眺めた。1年、2年生部員は31人で、今も隣接する仮設校舎で授業を受け、水曜を除く平日の放課後は市営球場で練習。土曜と日曜はバスで遠征し、練習試合をしている。
その努力が認められたのだろう。福島県高野連は来春の甲子園選抜大会出場の21世紀枠に小高工を推薦した。原発禍にも関わらず、今秋の県大会ベスト8入り。継続して県大会で上位に進出していることが評価されたのだ。
国道6号線を挟んで市営球場に隣接するテニスコートに行くと母校・原町高テニス部員が練習をしていた。3・11後は部員が減り、現在は男女合わせてたったの6人。
「これでは団体戦に出られない。せめて10人はいないとなあ・・・」 そういって嘆くコーチのSさんは、福島県テニス協会の副会長であり、今も現役選手として活躍。日本テニス協会の70歳以上のベテラン部で上位にランクされている。高校時代の私は当時大学生だったSさんにしごかれていた。
「岡君の時代は、毎年のように原高テニス部はインターハイや国体に出ていたよな。懐かしいよ・・・」 日焼けした顔でSさんはいった。 そういえば思い出した。私が高3のときに出場したインターハイは長野県松本市で行われたが、大会開幕直前だった。地元の松本深志高の生徒が西穂高岳登山中に落雷に遭い、11人が死亡するという事故が起こった。あれから48年が経つ。後輩たちの練習を眺めながら、遠い日を振り返った・・・。 |