12月初旬、干し柿の「あんぽ柿」の産地である、福島県伊達市の農林業振興公社とNPO法人銀座ミツバチプロジェクトが連携し、東京・銀座のど真ん中であんぽ柿生産の実証試験を始めた。熟成の状況を観察し、あんぽ柿生産に銀座の気候が適しているかなどを調べるという。
そこで久しぶりに銀座に出向いた。歩道には三脚に吊るされた社会鍋があり、救世軍の制帽・制服姿のおじさんたちが吹くラッパの音が年末を感じさせる。4丁目の三越と松屋の間の通りを晴海方向に歩くと紙パルプ会館があり、入口の左側やや上には皮がむかれた「あんぽ柿」が70個ほど吊るされていた。スマホを手にシャッターを切り、しばらく眺めていても足を止めてくれる人はいない。年末は誰もが忙しいのか・・・。
干し柿を「あんぽんたんの吊るし柿」と呼んでいた少年時代が懐かしい。毎年11月下旬から12月にかけて庭先に実った富山柿の皮をむき、細縄にヘタを引っ掛けて軒下に吊るす。スズメやシジュウカラ、メジロなどの小鳥がついばみに飛んでくれば、それを笹竹で追い払うのが子どもの役目であり、新年が明けるまでは細縄から外して食べてはならない。それが子どもたちに課せられた掟だった。
スーパーや八百屋などで売っているあんぽ柿は薄茶色で柔らかく、見た目にきれいだ。だが、私の実家でつくっていたものはこげ茶色でかたく、白い粉が吹いていた。少年時代はそのまま食べていたが、母は大根と人参のなますに細く割いて入れていた。これが酒の肴に最高だと知ったのは、高校に入ってからだった。
この実家でつくるあんぽ柿が大好きだったのが知人のSさんであり、毎年正月に帰郷するたびに持ち帰り、おすそ分けすると喜んでくれた。 「岡さん、毎年ありがとう。この歯ごたえと甘さがたまんないですよ・・・」
フクシマ・ルポ24で記述しているが、私と同年代のSさんはNPO法人「再生可能エネルギー推進協会(REPA)」の事務局を切り盛り。3・11後は毎月伊達市霊山町の下小国地区で「霊山プロジェクト」―水田除染プロジェクト≠ニメタン発酵プロジェクト≠ノよる復興支援活動を展開している。
一昨年の11月だった。私はSさんたちスタッフに同行し、霊山町に行ったことがあるが、たわわに実った柿の木を眺めながらSさんは無念の表情を見せつついった。
「原発事故後は岡さんの実家の干し柿も食べられなくなったし、この小国地区の柿も食べられない。残念だよねえ・・・」
そう語っていたSさんは、今年の春に他界した。前日に奥様からの連絡で入院先の病院に行くと、Sさんの中学時代の同級生も見舞いにきていた。彼女がいった言葉がせつなかった。
「S君ね、私たちは頑張ったの。そのうち私たちもぞろぞろと行くからね。待っているのよ・・・」 REPAの伊達市霊山町におけるプロジェクト活動は高く評価され、2年前から復興庁の「新しい東北」先導モデル事業に取り組んでいる。
故郷・南相馬の市内を歩くと、家々の庭先の柿の木の実は熟したままだ。放射線量が高く、ホットスポットが多い大谷地区に行くと、親戚の叔母さんが柿の木を指さしながらいった。
「あの柿は11個でちょうど1キロでね、隣の人が放射能の検査をする所に持って行ってくれたの。そしたら32ベクレルあったって。それで皮をむいて測ったら28ベクレル。食べてもさすけねえ(大丈夫)、ということで私は食べているけどね。この辺の年寄りたちは絶対に孫たちには食わせないの。将来なんかあったら大変だから・・・」
基準値は1`あたり100ベクレル。25ベクレル以下なら食べてもいいという。私はその柿を2個もいで食べた。かなり甘くて美味しい。だが、基準値以下であろうが、我が体内が放射能物質で犯されたかと思うと、やはり気持ち悪い・・・。
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