原爆のヒロシマとナガサキがあり、原発のフクシマがある。世界で唯一の被爆国で、多くの国民が放射能の犠牲になっている。それなのに日本政府は核兵器を国際法で禁じる「核兵器禁止条約」に反対した。4年後には「復興五輪」を掲げ、東京オリ・パラを開催するというのに、嗚呼!我がニッポンはどこに行こうとしているのか・・・。
フクシマに行くたびに2つの言葉が頭をよぎる。
《弱者がどう扱われているかによって、その国の文化程度がわかる》
盲目の女性の社会進出のために生涯を捧げ苦闘した、同じ境遇の斎藤百合はいった。
もうひとつ。日本初の公害事件、足尾銅山鉱毒事件を告発した明治の政治家・田中正造はいう。
《真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし・・・》
駅前に「ようこそ!福島へ 福が満開、福のしま」―。そう記されたのぼりが何本も立っているJR福島駅で下車。帰郷する際の私は、福島市と南相馬市間は・川俣町・飯舘村を経由のバスを利用することが多い。この5年7ヵ月間に車内で多くの人と出会い、いろんな光景を見てきた。
乗客の3・11への思いはさまざまだ。原発禍の街を取材にきた外国人記者や視察する大学生、数珠を握る人、聖書を手にする女性、線量計を凝視する学者らしき男性・・・。酔っぱらって乗客に迷惑をかける復興作業員もいた。「きつい・帰れない・給料が安い」の3Kの現状を教えてくれた、介護職員の話に耳を傾けたこともある。埼玉に避難するAさんはいった。
「夫は原発事故から5ヵ月後に90歳で亡くなった。震災関連死の手続きをしたけど、以前から足腰が悪かったということで認定されませんでした。原発事故さえなかったら夫はもっと長生きしていたと思います・・・」
1ヵ月前の9月28日。「南相馬20ミリシーベルト撤回訴訟」の第5回公判を東京地裁に取材に行ったときだ。同年代の原告の1人のHさんもいっていた。
「私と夫は原発事故から5ヵ月後の平成23年8月末から仮設住宅で生活していてね。夫は定期的に放射能の線量が高い家に帰り、掃除などをしていました。それで平成24年2月1日に家の周りの木を切ると線量が低くなるということで、伐採してたら木と重機に挟まれて死んでしまった。それで役場に行ってね、関連死の手続きをしたら認定されなかった。こんなバカなことありますか。夫は65歳だったんですよ・・・」
3年前の6月だった。政調会長だった高市早苗総務相が「原発事故では死亡者が出ている状況ではない」と発言したときは、誰もが「バカが!」と呆れ返った。この5年7ヵ月間で福島県の震災関連死は2000人を軽く超え、地震・津波での直接死の1604人を上回った。関連死のほとんどが原発禍の街から避難した人たちで、そのうち南相馬市は最も多く480余人に及んでいるのだ。
福島駅前から30分ほどでバスは川俣町に入り、車窓からは全村避難の飯舘村の草野小・飯樋小・臼石小の合同仮設校舎が見える。未だに児童は狭いプレハブの校舎で授業を受けているのだ。いつも私の取材に協力してくれる、飯舘村から隣の伊達市に避難し、仮設住宅で生活するAさんがいっていた。
「村長を筆頭とした村役場は、平成30年4月から飯舘村にゼロ歳児から15歳の子どもを一貫教育する認定こども園を新設するといってんだ。何でも国の交付金57億円で建設するというけど、放射能だらけの村に戻る子どもは50人もいないんじゃないの。なんぼ除染しても汚染土が詰まった、300万袋もの黒いフレコンバッグが村内のいたる所に山積みになってるからね。それを撤去しても放射能は消えないしな。雨でも降ればフレコンバッグから汚染水が流れ出てるよ・・・」
1時間40分ほどでバスは南相馬市のJR原ノ町駅前に着く。私は故郷の地を踏みながら、あらためて斎藤百合と田中正造の言葉を呟く・・・。
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