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vol.672-1(2016年4月14日発行)

佐藤次郎 /スポーツライター

「五輪の風景」−26
  「強ければいい」と「ゲーム感覚」

 バドミントン界を揺るがした賭博問題は、ひとつの道をきわめ、幅広い人気や注目を集めるトップアスリートといえども、その一部にはごく当たり前の社会常識さえわきまえていない者がいることを示している。それはいったい何ゆえなのか。
 違法カジノ店に出入りしてバクチを繰り返していれば、法律違反であるだけでなく、それが表に出た時には社会的な地位や立場、職業さえ失う可能性が高い。そんなことは誰でもわかる。違法カジノ店というのは、すなわち反社会的勢力に結びついている反社会的な存在だからだ。
 一流競技者であればますます失うものは多い。今回、桃田賢斗選手はほぼ確定していたオリンピック出場と、その先にあったはずのメダルを一瞬にしてなくしてしまった。それを少しでも考えていれば踏みとどまれたはずだ。いくら若いといっても、この常識欠如はどうにも理解できない。
 プロ野球の例も同じだ。野球賭博に手を染めて巨人を解雇になった投手たち。プロ野球選手が野球賭博に少しでも関係すれば即アウトということは誰でも知っていることだろう。なのに平気で手を出し、貴重な才能と将来の可能性をいとも簡単にどぶに捨ててしまった。清原和博元選手も、積み上げてきた名声を覚醒剤ですべて失っている。まるで思考停止状態ではないか。
 こうした事例は以前にもあった。だが最近のケースはちょっと度外れている感じがある。ごく一部ではあるはずだが、なぜ一流スポーツ選手の中に基本的な社会常識や判断力にこれほど欠ける者が出てくるのか。
 ひとつは、やはりこれを挙げておかねばならない。しばしば言われることだが、いまのスポーツ界やそれを取り巻く世界には「勝てばいい」「強ければいい」とする考え方が蔓延している。結果さえ出せば、派手な活躍で人気を集めさえすれば、常識外れの行動や不作法な言動も許されてしまう。いや、それどころか「独自の個性」などと一部メディアがもてはやしたりする。スポーツが社会の中でより大きな存在になっていくにつれ、そうした傾向もまたどんどん強まってきているのは間違いない。競技である以上、勝利が何より大事なのは当然だが、それにしても「勝てばいい」がすべてを律するようになれば、ゆがみが出てくるのは当たり前だ。そんな状況が、信じられないような常識欠如につながっているのは否定できないように思う。
 もうひとつ挙げておきたいのは「ゲーム感覚」の横行である。現代社会にあふれているコンピューターゲーム。画面に触れるだけ、キーを押すだけで液晶の中では何でもできてしまう。実生活では到底不可能なことが、そこでは自由自在に自分のものとなる。その結果、現実とバーチャル空間との区別が崩れて、まるでゲームをしているような感覚でものごとに対する風潮が若い世代に目立つのだ。これもまた、通常の感覚からすればありえないような常識外れの行動に、どこかで色濃くつながっているのではないか。
 そんな流れはオリンピックにも現れている。若者をひきつけるためとして、いかにもゲーム感覚と言いたくなるような競技が出てきているのだ。近年、冬季大会に加えられたいくつかの新競技などは、まさに液晶の中のゲームをそのまま競技場に持ってきた観さえある。さらに、eスポーツとして、コンピューターゲームそのものをスポーツとして推進していこうという動きも目立っている。オリンピックにeスポーツをという声も強まってくるだろう。  そうした流れは、スポーツというものの本質と合致するのだろうか。長く培われてきたスポーツ文化が、根本のところで変わってきてしまうのではないか。そこから生まれるオリンピックの変化を見過ごしていていいものだろうか。じっくりと論議すべき点はいくらもある。
 今回の賭博問題では、選手教育や競技団体のガバナンスなどの点が主として論じられている。が、根はもっと深いところにあるように思う。スポーツ全体にも、もちろんオリンピックにもかかわってくるものとして考えねばならない。相次ぐ不祥事を見ていると、しきりとそういう気がする。

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