リオデジャネイロオリンピックの開会式を見て、あらためて感じたのは、そろそろ考え方を変えていってはどうかということだった。現在のオリンピックをある意味で象徴する「開会式」というもののあり方について、だ。
実をいえば、リオの開会式は近年のものとはいささか違っていた。まずはその国の成り立ちを描く歴史絵巻を延々と繰り広げ、さらには最新映像技術を駆使したり大勢のアーティストを集めたりした一大ショーが続くというのがお決まりのパターンだったのだが、今回はそれが比較的短く、あまり長々とはやらなかったのだ。一番のハイライトとなる聖火点火も、これでもかと言わんばかりにいくつもの大仕掛けを繰り出すのではなく、わりとシンプルな形にとどめていたように思う。財政事情でそうせざるを得なかったという見方もあるようだが、それにしても、北京やロンドン(それぞれ方向性は違ってはいたが)などに比べれば、少しは簡素化されていたという観がある。
環境問題や多様な民族の融和を強くアピールしたのも印象的だった。陽気に踊ってブラジルらしさを前面に押し出した演出も、予想通りとはいえ、まずまずよかった。全体的には悪くない開会式だったと言っていい。ただ、それは近年の一連のものと比較してということだ。悪くない開会式だったからこそ、もっともっと考え方を変えていってはどうかという思いがよけい募ったのである。
なぜ、スポーツ大会の開会セレモニーをあんな形にしなければならないのか。なぜ、あれほどの巨大イベントとして極限までショーアップしなければならないのか。
建前はいろいろある。その国の歴史や文化を広く世界に知ってもらうため。平和や友好親善など、世界共通の課題についてアピールするため。あるいは、国民の絆を深め、誇りを高めるためという目的を掲げる場合もある。だが、実際にはどうだろうか。歴史といっても、都合の悪い負の部分には触れないというのがほとんどだ。今回は、アフリカからの奴隷について明確に取り上げていて、その点も評価できるが、これまではそうしたところはさらりと流してしまうのが常だった。平和を訴えるといっても、形だけの演出ばかりで、本当に人々の心に届く、あるいは実際に国際世界に大きな影響を与えるようなアピールには出会ったことがない。つまりはどれも建前にとどまっているのである。
現実はどうか。まずはビッグビジネスの舞台として、より豪華に華やかにしていきたいという狙いがある。オリンピックの商業的価値をさらに高めていくために、最も注目が集まる開会式をそのショーケースにしようという思惑が、IOCと、テレビやスポンサーなどのビジネスパートナーにあるのだ。開催国の政権による国力誇示、国威発揚の意図が加わると、開会式のとめどない拡大膨張の流れはさらに強まる。その結果、入場料金がきわめて高額になり、簡単に手が出せるものではなくなっているという状況も生まれた。大会によって差はあるが、どれも一般の市民にとって妥当な金額とは到底言えない。
自己満足にすぎないとも思える歴史絵巻など必要ない。スポーツに関係のないショーもいらない。セレモニー部分にも省みるべきところがある。参加国が200を超えるいま、時間ばかりがかかる選手の入場行進にもなんらかの見直しが必要なのではないか。聖火点火の果てしない技比べにも、もう食傷気味だ。すべてに過剰なのがいまの開会式である。見直し、考え直すのが必須だと強く思う。
さまざまな面での拡大膨張がほとんど極限まで来ている現在のオリンピック。そこにかかる巨費に「NO」が突きつけられ、開催を望む都市もしだいに少なくなり、IOCもこれまでの姿勢を改める指針「アジェンダ2020」を出さざるを得なくなっている。いまや危機感はすべての関係者に共通しているはずだ。
膨らみ続ける費用を筆頭とする過剰さ、行き過ぎに歯止めをかけ、世界のどこの地域でも無理なく開けるようにする。それがいま切実に求められていることだろう。あえて言えば、もっと質素に簡素に、あくまで原点であるスポーツの祭典としての大会を目指していくべきなのである。他の要素はいらない。世界中の若者が集まって競技をするということ自体が平和や友好につながるのだから、わざわざ建前をつけ加える必要もないのだ。
もちろん、簡単に変わる、変えられるものではない。では、どこから手をつけていくかといえば、やはり開会式だろう。ビジネス的な側面ばかりが強調されるものでもなく、国威発揚の場でもない、本当にスポーツ大会にふさわしい、シンプルで印象的な開会式を実現すれば、それは間違いなくオリンピック改革の効果的な突破口となる。
意図があったかどうかはともかく、リオの開会式にはそれがほの見えた。2020年東京大会の関係者は、いまのオリンピック、またその象徴たる開会式にどんな理念を持っているだろうか。ただ単に、高い技術力や組織力を誇示するような開会式にしてしまえば、そんなものは何年もたたないうちに世界のスポーツファンの記憶から消え去っていくということだけ、ここで言っておこう。
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