新聞連載の取材で、近ごろはもっぱらオリンピックに関する先達たちの足跡を追いかけている。1912年のストックホルム大会で日本初のオリンピアンとなった三島彌彦と金栗四三から始め、いまは64年東京大会のあたりに掲載が差しかかっているが、昔の選手のことや歴史的な出来事をあらためて振り返り、掘り起こしていくのは実に面白い。スポーツ及びスポーツ選手がまだ純粋さを多く残していた時代だからだろう。
前々回にも書いたように、日本のスポーツ界は概して競技の歴史や先人の活躍に冷淡と言わざるを得ない。メディアやスポーツファンも同じだ。昔の話とはいえ、そこからはいまでも役立つ教えや教訓を汲みとることもできる。スポーツ界はもう少し、自らの歴史や先輩たちの足跡をじっくりとかみしめる姿勢を持つべきではないのか。
いずれにしろ、長いオリンピックの歴史には興味深いことがらが多いし、広く知られずに埋もれていることも少なくない。取材の中からいくつかを挙げてみよう。
日本初のオリンピアンとなった三島彌彦は東京帝大法科に学ぶ学生で、陸上短距離に出場した。同じくストックホルムに出た金栗四三がマラソンや駅伝で名を残しているのに対し、あまり知られているとはいえないが、彼もまた日本初の五輪選手にふさわしい存在だった。陸上だけでなく野球や柔道、水泳、スキーとスポーツ万能のスーパーアスリートだったのだ。
「かけっくらをやりに外国に出かけるのは帝大生にとって価値があるだろうか」と悩み、時の帝大総長に相談したというエピソードがある。まだ日本社会の中でスポーツはそんな位置づけだった。とはいえ、オリンピック出場前年には、雑誌に執筆した記事でオリンピックに触れており、「今日運動を奨励するのは大に必要」とスポーツの重要性を指摘。五輪では満足な成績を残せなかったが、帰国後には雑誌の体験談で「水泳はどうやら競争ができそう」「(陸上の)長距離ならあるいは世界の舞台に立つ選手も」と、その後の日本スポーツの躍進を予見している。初のオリンピアンにふさわしい見識を持った人物だった。
24年パリ大会のレスリングに出た内藤克俊は、日本でレスリングが始まったとされる7年も前に銅メダルを獲得している。もともと柔道家だったのだが、米ペンシルベニア州立大学に留学してレスリングに出合い、パリで快挙を成し遂げたのだ。グレコローマンにも、当時はキャッチ・アズ・キャッチ・キャンと呼ばれていたフリーにも出場し、フリーのフェザー級で3位に食い込んでみせた。大学でレスリングチームの主将を務めていたのは、アメリカでもその人柄が高く評価されていたからに違いない。
内藤は大会報告書で、「民族的接觸」という言葉を使って、異文化の相互理解の重要性を論じている。留学先のアメリカでは新たな移民法などによる排日の動きがあったころ。そうした中ではさまざまな民族間、多様な文化間の相互理解について考えることも多かったのだろう。競技や大会を通して、より幅広く深く、国際社会の課題を見通していたというわけだ。レスリングの先駆者であり、また広い視野を持つ真のオリンピアンであった人物のことは、スポーツ史の中でもっと語られるべきではないか。
織田幹雄といえば、28年アムステルダム大会の陸上・三段跳びで日本初の金メダルを獲得した選手としてあまりにも有名だが、その視線は常に世界に向けられていた。幅広い視野を持つ国際人だった織田の真骨頂は、のちの64年東京でも発揮されている。日本陸上選手団の総監督を務めるかたわら、自ら店を借り上げて、陸上の各国コーチが自由に交流できる場を設けたのだ。このことはほとんど知られていないが、真の国際人の面目躍如というべきエピソードだと言っておきたい。
そしてアベリー・ブランデージ。1952年から72年まで会長としてIOCに君臨した「アマチュアリズムの守護神」は、徹底的に商業主義を排した厳格さで知られているが、他方では、古いエリート的価値観にこだわり、独善的で強引な姿勢を崩さなかったことで批判も浴びた。68年メキシコシティー大会のブラックパワー問題では「ブランデージを引きずり下ろせ」の垂れ幕が選手村に現れたこともある。ただ、その古めかしい主張が、あらためて聞くとかえって新鮮に思えてしまうのはなぜだろうか。
「オリンピックは個人同士で争われるもの。国内オリンピック委員会は自由でなければならない。さもなければ大会はすぐに国家間の競争に堕落してしまうだろう」「オリンピック運動の理想主義と、すべてが金銭ではかられるかに見える恐るべき物質主義とが、遅かれ早かれ衝突することは不可避であった」
著書に書き記されたこれらの言葉は、いまになってみるとかえって心に響く。歴史を振り返ることは、すなわち現在をあらためて見つめ直すことでもある。(※文中の引用文は原文通り)
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