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vol.713-1(2017年5月5日発行)

佐藤次郎 /スポーツライター

「五輪の風景」−54
  「男女混合」、消えない違和感

 2020年東京オリンピックに向けて、男女混合による新種目の提案が目立っているようだ。IOCがかねて強調している「男女平等」の主張にこたえるものなのだが、前にもこの欄で取り上げたように、理念は正しくても、その進め方にはどうにも違和感が拭えない。これはオリンピックにとって本当にふさわしいものと言えるのだろうか。
 男女平等の実現がどの分野でも重要なのは言うまでもなく、オリンピックがそれを目指すのは当然のことだ。IOCはオリンピック参加者を男女同数にする目標を掲げており、実際、大会ごとに女子の比率は高まっている。2012年のロンドン大会からは実施競技のすべてに女子種目が設けられるようにもなった。
 ただ、違和感が拭えないのは、そのやり方があまりに建前的に過ぎるように感じるからだ。新たに加えられた女子種目には、世界各地で行われているとはいえない普及度の低さや、歴史が浅く、選手層の薄さやレベルのばらつきが目立つものも多いのである。男女平等はもとより大事だが、世界最高のスポーツの祭典にふさわしい内容をまだ備えていない段階で、オリンピックの正式種目に加えていくべきなのだろうか。それより、まずはすそ野を広げ、土台を厚くしていく方が先ではないか。
 世界には、まだ女性スポーツが盛んでないところ、女性がスポーツに取り組む環境が整っていないところがたくさんあるように見受けられる。スポーツのみならず、すべての面で大きなパワーや影響力を持っている組織として、IOCはまず、そうした状況を積極的に変えていく努力をすべきではないか。オリンピック種目に加えて注目度を高めれば、おのずと盛んになるという考え方もあるだろうが、やはり大事なのは地道に一歩一歩、女性スポーツの土台を厚くして幅広い普及発展を実現していくことに違いない。そこをしっかり固めないまま、いきなり華やかな表舞台に上げてしまっても、けっして全体の発展やレベルアップにはつながらないように思う。
 そう考えてくると、各競技団体が打ち出している男女混合種目の新設にも首をかしげないわけにはいかない。IOCの意向に沿うことによって新種目を入れたいという意図はわかるが、それがそれぞれの競技の本質に、またオリンピックという舞台にふさわしいものかどうかは前述のごとく疑問だ。ここにも現実を離れた建前を、あるいは競技の本筋とはちょっと離れた計算のようなものを感じるゆえんである。
 それに、男女混合となれば、当然ながら団体戦やリレーになる。「団体戦新設」も近年目立つ傾向なのだが、そこにもまた違和感がある。個人競技に団体戦を設けるのには、いわゆる「木に竹を接ぐ」観があるからだ。
 そうした団体戦にある種の面白さがあるのはわかるし、さらに男女混合ともなれば、それなりの人気を集めるだろう。が、そこには競技の本道とはいささかかけ離れた意図、すなわち、ショーアップしてなんとか注目度を高めようとする狙いや、テレビ受けを考えた計算なども働いているように思える。そうした意図を一概に否定するわけにはいかないが、ただ建前や計算によって男女混合の団体戦をつくっても、それが競技本来の魅力を伝えることに、あるいは増すことになるとは思えない。自然な流れの中から出てきたものではない、「無理につくった」感がどうしても拭えないのだ。
 オリンピックが曲がり角に来ていること、さまざまな変革が必要なことは、IOCも十分に認識しているに違いない。が、その対応となると、いささか方向性がずれていると感じることが多いこのごろだ。

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