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vol.727-1(2017年9月8日発行)

佐藤次郎 /スポーツライター

「五輪の風景」−63
 オリンピックは「スポーツの」祭典だ

 2024年夏季大会の開催が確実となっているパリが、eスポーツの導入を検討しているという。本当にそうなっていくのだろうか。愕然とする話だ。オリンピックの変質をあらためて思わずにはいられない。
 eスポーツ(エレクトロニック・スポーツ)、すなわちコンピューターゲームを競技化したものが世界中でブームとなり、各地で大きな大会が開かれているのは承知している。トップゲーマーたちの技がきわめて高いレベルにあるだろうということも容易に想像できる。ゲーム愛好者にとって、その技術は注目の的に違いない。しかも、2022年のアジア大会では正式種目にもなるという。が、あらためて考えてみなければならない。これはスポーツなのだろうか。
 スポーツの定義はさほど明確ではないように思う。ただ、ごく常識的に考えれば、鍛錬した体を動かすことによって自分の思いを表現する行為、とでもなるだろうか。体をどう動かすか、自分の体をどこまで思い通りに動かせるかを追求していく行動とも言えるかもしれない。いずれにしろ、さまざまな面から体を鍛え抜いて、それぞれの競技で求められる動きをできる限り実現していくところに真髄があり、魅力があるのだ。
 電子ゲームはそういうものだろうか。もちろん体力も反射神経も求められるだろうが、バーチャルの電子映像を指先で操る行為はスポーツとはまったく違う。それは「別物」である。なのに、なぜスポーツの祭典に加えられるのだろうか。
 理由ははっきりしている。ゲームの主たる愛好層である若者世代にアピールしたいというのだ。もちろん、これによって新たなスポンサーの獲得が見込めるなどというビジネス展開も見据えているに違いない。若い世代のスポーツ離れを食い止めるという大義名分のもと、ビジネスの拡大につながりやすいトレンドスポーツを次々に取り入れているIOCの近年の姿勢をそのまま反映しているとも言えそうだ。
 しかし、先に触れたように、オリンピックはスポーツの祭典なのである。にもかかわらず、いろいろな形での利益ばかりを考えて、多くの人々がスポーツとは思っていないはずのものを大会に取り入れようとするのは、どこからどう考えてもおかしい。人気があるから、トレンドだからといって、スポーツとはいささか違う世界のものを加えるのは、長い年月をかけて築いてきたオリンピックの精神に沿うものではない。
 あらためて言うまでもないだろうが、この論は、それがいいか悪いか、とか、どちらがすぐれているかどうか、などということにはまったく関係ない。スポーツはスポーツ、ゲームはゲーム。それぞれ別の世界なのである。それぞれに異なったよさがあり、魅力があり、文化があるのだ。それをどうして一緒にしなければならないのか。
 このことは、囲碁やチェスをマインドスポーツと称して、総合スポーツ大会に加えていこうとする動きにも共通している。一般社会の大勢がそれらをスポーツとして認識しているとは思えない。なのに、なぜスポーツ大会への参加を求めるのだろうか。
 囲碁もチェスも、スポーツを上回るほどの深さを持っているように思う。勝負としての面だけでなく、深い精神性や哲学をも併せ持った一大宇宙を形づくっているのである。わざわざスポーツに入り込んでいく必然性など、どこにもないではないか。
 ともあれ、オリンピックをめぐる最近の動き、ことにIOCの示している姿勢には違和感を覚えないではいられない。オリンピックの本質から逸脱しているところがあまりにも目立つのだ。なんであれ、時代によって変わっていくことはあるだろうが、本質はそうではない。それを保っていかなければ、培ってきた歴史や文化までも変質してしまう。
 このままの流れが続いていけば、確かに新たな層の関心を得ることはできるかもしれない。が、これまでオリンピックを支えてきたスポーツファンの多くは、大会にそっぽを向き始めるだろう。筆者も含め、オリンピックを愛好する人々は、まさしく「スポーツを」見たいのである。

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