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vol.736-1(2017年11月16日発行)

佐藤次郎 /スポーツライター

「五輪の風景」−68
 「面白くなければ」の短絡

   目を見張らせるような妙技、複雑かつ高度な技を身につけていくもの。一見、単純きわまりない動きをとことん突き詰めていくもの。競技スポーツにはそれぞれに特色がある。後者の代表格は陸上のトラック種目だろう。短距離であれ長距離であれ、走るという単純素朴な動作を磨き抜き、10分の1秒、100分の1秒を縮めるのに全精力を傾けていく行為は、自分の内面をひたすら見つめる座禅にも、またひとつのテーゼを追求し続ける哲学にも相通ずるところがあるように見える。そしてそこが、こうした競技の何よりの魅力に違いない。
 スピードスケートもそうしたもののひとつだ。激しいトレーニングで培ったパワーをいかに滑らかな動きに変えるか。スケートの刃を通して、力をいかに無駄なく氷に伝えていくか。トップ選手たちの、何気なく滑っているように見えるスケーティングには、よりよい動きを実現するために積み重ねてきた、膨大な試行錯誤や工夫が込められている。その昔、この競技のことを「面白くない。ミズスマシのようだ」などと発言した、オリンピック開催県の某知事がいたが、そうした人間は、スポーツに限らず、何についてもものごとの本質、真髄を見きわめることができないのだろう。リンクを二人ずつ周回するレースには、極限まで磨いた動きの質が凝縮されている。それこそがスピードスケートの本質であり、そこをしっかり見きわめるのが最大の面白みというわけだ。これもまた「哲学的な」雰囲気を漂わせている競技と言えるかもしれない。
 そう考えると、近年、スピードスケートの世界にはいささか首をかしげるところが出てきている。オリンピックに団体追い抜きが入り、来年二月のピョンチャン大会からはマススタートが加わるように、本来の姿とはかなり違う種目が前面に出てきているのは、いったいどうなのか。
 スピードスケートの本質は純粋な滑走力の競い合いである。だからこそ、ダブルトラックでイン、アウトを交互に滑り、公平に力を出し切れる形でレースが行われるのだ。が、新しい種目ではそれだけでなく、戦術や駆け引きもかなりの部分を占めているように思われる。ことにマススタートにはその印象が強い。競技の本質とはいささか違う要素をつけ加えた種目を相次いで最高の舞台に登場させる意味はどこにあるのか。
 近年、多くの競技で、競技時間を短縮するためのルール変更が行われてきた。オリンピックに強い影響力を持つテレビの意向によるものだ。テレビが放映しやすい形にしなければオリンピック種目としての存続が危ういという危機意識が、それぞれの競技を時間短縮に走らせた。そして最近は、よりわかりやすく、面白くしなければならないという風潮が強まっている。そこで各競技はゲーム性を高める方向へと走るようになった。アーチェリーが、以前のダブルラウンド方式から、決勝ラウンドを一対一のマッチ戦による勝ち抜き方式にしたのはその代表例のひとつだろう。わかりやすく、面白くしていかなければオリンピックに残っていけないという意識が強まっているのである。
 スピードスケートの新しい種目もそうした流れに沿ったもののように思われる。確かに団体追い抜きにもマススタートにも勝負の面での目新しさがあり、それはスピードスケートに興味を持たなかったファンの目にも新鮮に映るだろう。日本勢が好成績をおさめているのもあって、メディアも大きく取り上げている。ただ、それぞれの競技の本質、真髄とは違うところで注目や人気を集めようとするのは、競技団体が進むべき本道とは言えないように思う。スポーツの魅力、面白みは単純なゲーム性にのみあるわけではない。ゲーム性ばかり追いかけるのは短絡的というものだ。わかりやすく、面白くしさえすればいいという考え方が行き過ぎれば、それはきっと競技の本質をそこなうに違いない。
 冬季オリンピックには近年、電子ゲームをそのまま形にしたような種目が次々と入ってきている。夏季大会にもその流れが出てきているようだ。ハプニングが多く、番狂わせもしばしば起きる展開は、確かに多くの視線を集めやすい。だが、競技とはそういうものだろうか。たとえ見た目が地味でわかりにくくとも、深みがあり、奥が深いからこそ、長い歴史の中で多くの人々を引きつけてきたものが多いのではないか。さまざまな競技があり、それぞれの味わいがある幅広さがスポーツの魅力なのに、みんなが単純なゲーム性ばかりを追い求めるようになっては、かえってスポーツの奥深い魅力が薄れていくのではないだろうか。
 スポーツの本質を理解しようとしない人々、スピードスケートを「ミズスマシのようで、面白くない」としか見られない人々がいるのは仕方がない。すべての人々にきちんと理解してもらおうというのは無理な注文というものだ。ただ、ゲーム性ばかりをつけ加えようとする流れは、ある意味では、スポーツの本質を理解しようとしない人々に迎合しようとしている動きのようにも見える。それはスポーツ界のとるべき道ではない。
 すぐに面白みは見えてこない。が、じっくり見ていると、だんだんにその味わいがわかってくる。どこか哲学的にさえ思える魅力が感じとれるようになる。スポーツにはそんな楽しみ方もあるのだ。オリンピックは、そのことをあらためて感じられる舞台であってほしい。

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