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100号記念メッセージ

■vol.105 (2002年7月24日発行)

【杉山 茂】 再び新風の予感、川淵サッカー協会会長
【糀 正勝】 パンチョ伊東さんのこと その3


◇再び新風の予感、川淵サッカー協会会長
(杉山 茂/スポーツプロデューサー)

日本のスポーツ界に新しい風を送り込み続けた日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)のチェアマン・川淵三郎氏(1936年12月生まれ)が、日本サッカー協会会長就任のため、その采配を置いた。在任10年8ヶ月である。

7月24日、“最後”の理事会(東京)では、感傷的なシーンもあったが、すぐに新しいポストへの意欲をたぎらす表情となり、力強いいつもの川淵氏へ戻った。

今後への期待はこれまで以上に大きい。日本のスポーツ団体をいかに“転進”させるかは、中でも魅力にあふれた興味といえよう。

「Jリーグの理念」を日本サッカー協会という場で、どう成熟させるか。それには旧態を打破するエネルギー、実行力が不可欠だ。

長い歴史や伝統を認めないとまでは云わないまでも、川淵氏は、様子を見ながらなどといった、まどろっこしい姿勢は採らないだろう。

その兆(きざ)しは、早くものぞける。

例えば、中学、高校、大学のいわゆる「部」と、Jリーグをはじめとする一般クラブの"2重登録"を認めたいとの意向や、地方組織の拡充、自立を促してもいる。各地の大会をトーナメント(ナックアウトシステム)から総当たり戦(ラウンドロビン)へ積極的に切り替えたい、とも云う。

競技者、愛好者の"2重登録"は旧来の慣行からすれば、奇抜なアイディアに思えるが、こうした面での改善をためらっていては、新しい状況は生まれない。

Jリーグが、多くのスポーツ関係者を刺激したように、これからの日本サッカー協会の動きは、日本体育協会や日本オリンピック委員会(JOC)に加盟する諸団体に、大震動を起こさすのではなかろうか。

川淵氏の手腕がどう発揮されるかは、いよいよスポーツが「教育」の枠から飛び出すはずみにもなろう。

最近のスポーツ界は、新しく勇気の必要なことは、川淵氏しだい、サッカー任せに見えるのも、実に情けない。

彼と彼らより先行する行動がどこかで起こるのも、この際、待望しておきたい―。

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◇パンチョ伊東さんのこと その3
(糀 正勝/インター・スポーツ代表)

1991年2月に私は18年勤務したロッテ/ロッテ・オリオンズを退職することにした。

最初の希望は、アメリカに渡ってメジャーリーグのマネジメントを勉強することだった。
パンチョさんのかばん持ちでもして、どこかの球団で実践的なメジャーリーグ経営を学びたい。いろいろ相談しながら具体的に渡航準備を始めた時、一番のネックは言葉の問題だった。英語が喋れなければ、本物のメジャーリーグ経営を学ぶことが出来ない。運転免許もないし、単身赴任の生活費の問題もあり、アメリカ行きはいとも簡単に挫折した。

ところが3月にはドイツ行きの話が出てきた。ドイツのブレーメンに日本人学校があって、将来的にはカッレジを併設する構想がある。その日本人学校の寮長を募集しているという話であった。大学の専攻がドイツ語だったこともあり、言葉にはそれほど不安がなかった。寮長と世界史教員の兼任で、ちゃんとした給料も出るし、教員寮もある2年契約だった。

「パンチョさん、ドイツに行くことに決めました。フランスの代表監督になった吉田義男さんみたいにベースボールをドイツに普及させようと思います。」などと言って旅立った。

2年間のブレーメン滞在中には、ベースボールを楽しんだり普及させたりすることは全く出来なかった。確かに、ブレーメンにもいくつかの野球チームは存在した。しかし、ドイツでは圧倒的にサッカーだった。5月にハノーバーでヨーロッパ選手権予選「ドイツ対ベルギー」を初めて観戦した。その圧倒的な迫力の前に、野球少年はサッカー中年に転向した。

その年の暮れに帰国して、正月明けにパンチョさんと会食した。「パンチョさん、ヨーロッパはサッカーですよ。サッカーは面白いですよ」と意気込んで話し始めたら、パンチョさんはニコッと笑って、いつものメジャーリーグのスタジアム・ジャンパーの前を開いた。そこにはなんと、スペインの名門・FCバルセロナのユニホームを着ていた。

「この前スペインに旅行してきた。バルセロナはいいところだ。1992年3月にバルセロナ・オリンピックのデモンストレーションで『メジャーリーグ対日本のオールスター』戦を行う。ドイツのブレーメンからそんなに遠くないだろうから、是非観においでよ」と誘われた。

1992年3月にブレーメンから乗り継いでバルセロナに出かける計画を立てた。日米プロ野球のオールスター戦を観戦するためだ。ところがこの試合はメジャーリーグの労使交渉が不調に終わり、間際になって中止となった。すでに航空券とホテル予約は済んでいる。

いまさらキャンセルするには忍びない。予定どおりバルセロナ空港に降り立った。マルクをペセタに両替して、ホテルの名前を書いたメモを渡して、タクシーでホテルに向かう。ホテルはバルセロナで一番有名なランブル通りにある。宿の手配をしてくれた共同通信の若い友人は、旅行の経緯を聞いて、バルセロナでは野球よりサッカーがお勧めだと慰めてくれた。今夜はバルセロナ対マドリッドの首位決戦があるという。

その夜のFCバルセロナ対レアル・マドリッドの試合は素晴しかった。スタジアムには、11万人の観客が詰め掛けている。スタンドはパンチョさんが密かに着ていたバルサのユニホームで満ち溢れていた。ストイチコフ(ブルガリア)とクーマン(オランダ)の活躍でバルサが2対1で勝ち首位をキープした。翌日はオリンピック・スタジアム、ガウディのサグラダ・ファミリア、そしてモン・セラ寺院を見学した。日米野球のオールスターは残念ながら観戦できなかったけれど、ヨーロッパサッカーの醍醐味をスペインで満喫した。

パンチョさんありがとう。

パンチョさんは野球界では、日本一のメジャーリーグ通として知られている。事実、多くの若者たちの「メジャーリーグ挑戦の夢」を心から先導し、あるときはサポートした。

Jリーグ創設に当たっても、パンチョさんはメジャーリーグ経営に関する貴重なアドバイスを行った。1993年5月15日、Jリーグ開幕の招待席にはパンチョ伊東さんがいた。

2002年7月9日に芝増上寺で行われた告別式では、多くの関係者がパンチョ伊東さんに対する最後のお別れを告げた。ニッポン放送の深澤弘さん、プロ野球OBの関根潤三さん、漫画家の水島新司さんの弔辞は、どれもがパンチョさんの優しさを語り伝えてくれた。

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