「岡さん、23日に千葉で開催される国際千葉駅伝で優勝する国はどこだと思いますか? 間違いなく男女ともケニアだね。よく今の日本人選手にはハングリーさが足りないといわれる。その点、ケニア人選手はハングリー。ケニアが勝つのは当然なのよ・・・」 高橋尚子が復活優勝を遂げた東京国際女子マラソンが行われた11月20日の前夜。行きつけの新宿の居酒屋でのことだった。久しぶりに顔を見せた小林俊一さんは、私が暖簾をくぐるなり愛用のボルサリーを片手に自信に満ちた顔で言ってきた。 そして、4日後の23日。結果は、その通りになった。男女ともケニアが制した。男子は1区から首位を守りつづけたケニアが、1時間57分6秒の世界新で優勝。女子もフルマラソン歴代2位の記録保持者のヌデレバを擁したケニアは、日本チームに3分以上の差をつけ、強豪チームのエチオピアとロシアを抑えた。男女同時優勝。小林さんの予想は的中したのだ。 で、小林俊一なる男は、いかなる人物なのか――。 初めて私が小林さんに会ったのは8年前の夏。同じ新宿の居酒屋の店主から紹介されたのだった。当時の小林さんは、人呼んで日本陸上界の“闇の仕掛け人”、“陰のロビイスト”などといわれ、アフリカのケニアに居を構えているためだろう。通称は“ケニヤッタ小林”。夏ということで愛用のパナマ帽を被る小林さんは、私を気圧するように語った。 「いや、まだあるね。“人買い小林”ともいわれている。理由は、93年暮れの全国高校駅伝で仙台育英が男女ペア優勝した。そのときに私がケニアから連れてきた男2人女2人の選手が活躍したため、マスコミは面白がってそう呼んだ。もちろん、私は人買いでもなんでもない。彼らでもって金儲けなどしていない。ただし、私も仕事人だからボランティアで働いているわけじゃないしね。これはあまり書いて欲しくないんだが、学校や企業に選手を紹介するときは年間顧問料として150万円をいただいている。そのかわり私は、ケニアから選手を連れてくるときはパスポートやビザの申請などあらゆる手続きをしてやるし、日本では彼らの身元引受人の親代わり。だから、私は人買いでもエージェントでもない。いってみればスポーツコーディネイターなんだ……」 私は、こういう“毒”のある人間に興味を持つ。はっきりいって大好きだ。以来、ケニアから帰国するたびに来店する新宿の居酒屋で私は、たびたび小林さんの話に耳を傾けた。 昭和17年生まれの小林さんは、早稲田大学卒業後にサントリーに入社。脱サラしてケニアに渡ったのは、丸27年前の春だった。初めはスポーツカメラマンを目指し、タンザニアやエチオピアの競技場に足を運んだ。そこでタンザニア生まれのイカンガーと知り合う。ケニアに渡って1年半後の78年秋、タンザニアのアルーシャで、ケニアとタンザニアの交流競技会のときだ。このことが小林さんの人生を変えた。 「当時、18歳のイカンガーは、1万メートルのランナーだったんだが、高校時代に陸上経験のある私が、ロードレースだったら大成するとマラソンランナーへの転向をすすめた。走り方がマラソン向きだったからね。そこで私は、大阪のオニツカタイガーに“御社長様”と書いて手紙を出した。そしたらケニアにへんな日本人がいると思ったんだろうね。マラソンシューズを送ってきてくれた。それをイカンガーに渡したら喜んじゃってね。それでマラソンランナーに転向し、世界的に有名になったわけ……」 ケニアのナイロビに在住する小林さんは、現在まで、若い才能あるケニア人選手を見出しては日本の高校や大学、実業団チームなどにつぎつぎと送り込んでいる。もちろん、活躍している。世界陸上で金メダル、ソウル五輪で銀メダルに輝いたエスビー食品のワキウリ、アトランタ五輪で銅メダル、シドニー五輪で銀メダルを獲得したコニカのワイナイナ。それに山梨学院大学を箱根駅伝で一躍有名にしたオツオリなど……。 会うたびに小林さんは、真顔で私に力説する。
「岡さん、今の日本は不景気だ、不景気だといっている。しかし、ケニアと比べたら裕福だね。たとえば、私が紹介したケニア人選手が日本の企業に所属し、選手として頑張れば600万円以上の年俸がいただける。それをケニアに送れば10年分の生活費だよ。つまり、ケニア人選手が日本にくるというのは憧れであり、夢なんだ。私は、ケニアの貧しいランナーに2本の足で人生を切り拓けといっている。選手生命は有限で10年そこそこで力はなくなるが、マラソンは無限。私は死ぬまでケニア人選手にチャンスを与えたいね」 小林さんは“人買い小林”と揶揄されようが、ケニアと日本の陸上界のかけ橋になっていることは確かだ。 |