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東レパン・パシフィック・テニス2005 マリア・シャラポワ


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vol.288-1(2006年 2月 8日発行)
岡 邦行/ルポライター

GK・小島の引退に思う

杉山 茂/スポーツプロデューサー
   〜WBC、アメリカ国内中継は「ESPN」〜
岡崎 満義/ジャーナリスト
   〜大澤真幸さんの江夏豊論〜
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GK・小島の引退に思う
岡 邦行/ルポライター)

「100点満点で120点のサッカー人生を歩むことができました」

 現役最年長Jリーガーだったザスパ草津のGK・小島伸幸(40)が、現役選手を引退した。

 Jリーグが発足する前年の92年から96年までの約5年間、集中的にサッカー取材をしていた私にとって小島は、ある面で注目すべきGKだった。たしか94年だった。小島が在籍していたベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)が、2部リーグのJFL(現・J2)からJリーグ(現・J1)に昇格した際、当時の監督だった古前田充さんが私にいってきた。
「28歳の小島は、正GKじゃないんだが、陽気で明るい。それがいいんだ。選手の技術などはそれほど変わらないしね。重要なのはヤル気。ウチがJでどこまでやれるか、そのキーパーソンになるのが小島だと考えている」

 古前田さんが予告した通り、小島の明るいキャラがチームを奮起させた。翌95年元旦の天皇杯決勝戦に駒を進めたベルマーレ平塚は、セレッソ大阪を破って優勝した。小島の好セーブが優勝に導いたのだ。

 そして、天皇杯を制した後に29歳になったのを契機に小島は“サラリーマン選手”を卒業し“プロ宣言”。同時に日本代表入りを果たした。当時の日本代表監督の加茂周さんは、小島の代表入りについて私にこう説明した。

「とかくGKは非常に扱いにくい。たとえば、ストイックな人間が多い。その点、小島の場合は、ひと言で明るいし、練習熱心だ。チームに与える影響は計り知れない。たとえスタメンのGKになれなくとも、存在感を買いたい」

 結果、98年のW杯フランス大会まで4年間も小島は、日本代表メンバーに名を連ねたのだった。

 丸3年前。群馬県草津に出向いて私は、小島をインタビューした。
「一応、W杯フランス大会でも代表に選ばれてね。ベンチ入りできましたから悪運が強いんですよ、僕は。代表メンバーとしての僕のAマッチ出場は、たったの5試合なんですよ。で、そのうち3試合を失点0に抑えたんですが、残る2試合はいずれもブラジル戦でね。なんと2試合で8失点・・・。単純に代表から外されても不思議ではなかったんですけどねえ・・・」

 小島は、短い半白の頭髪に手をやりながら明るく苦笑しつつ語った。さらにそれまでのサッカー人生を振り返った。

「・・・僕の人生を振り返ると、毎年1月の誕生日を迎える頃に何かが起こるんですよね。たとえば、年収に関していえば、29歳になった95年1月にはプロ契約し、それまでの500万円ほどの年収が一気に5、6倍になった。ところが、7年後に36歳になったときは所属していたアビスパ福岡から“0円提示”の戦力外通告・・・早い話がクビです。3ヵ月後にはザスパ草津に選手兼コーチとして入団できたけどね。福岡をクビになった後の3ヵ月間は浪人生活のホームレス状態。リストラされたサラリーマンの気持ち、少しはわかりました。でも、ま、サッカーで生活できるなんて思ってもいなかったしね。まったく不満はないですよ・・・」

 そんな小島は、この1月に40歳を迎えたことを契機に自ら引退を決めた。今後はザスパ草津のアドバイザースタッフとしてチームに残る一方、将来は指導者を目指しS級ライセンス取得も視野に入れているという。


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