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vol.511-1(2010年11月24日発行)

佐藤次郎 /スポーツライター

25歳の若者が背負う重荷

  「日本人より日本人らしい」などという表現がしばしば使われる。大相撲の横綱白鵬である。違和感を感じないではいられない。モンゴル出身の横綱に対して、なぜ「日本人らしい」を最高の褒め言葉とするのか。

 折り目正しい振る舞い。丁寧な受け答え。相撲への真摯な取り組みがとりわけ目立つ力士である。加えて、角聖といわれるかつての大横綱、双葉山の姿に学ぼうとする姿勢が、「日本人より日本人らしい」の評を生むのだろう。

 真摯な姿勢を崩さないのはもちろん素晴らしい。引退するまで傍若無人な態度を押し通した朝青龍の例があるだけに、白鵬を評価する声が高いのは当然といえる。とはいえ、いくら日本の国技ともいわれる大相撲であれ、外国出身力士があえて「日本人らしく」なる必要などないはずだ。

 大相撲の力士の多国籍化が進んでいる。その当否をどうみるかはともかく、こうした流れは否応なく加速していくに違いない。それに伴って、外国人力士の行動、言動による相撲界の変質も目立ち始めている。ただ、そうした問題はまた別の話だ。この国際化の時代に、外国人力士は「日本人らしく」なるべきなのだろうか。

 大相撲の魅力は、その独特の空気がかもし出すもの、長い歴史と伝統が練り上げた大相撲ならではの「らしさ」にある。すべての力士にはそれを十分に理解してもらわねばならない。場所や稽古場での粗暴な振る舞いや野卑な言動、土俵でのガッツポーズ、古くからのしきたりや様式を否定するような行動などは論外だ。ただし、それはつまり「力士らしくあらねばならない」ということであって、「日本人らしくあらねばならない」ということではない。

 日本人力士も、さまざまな国から来ている外国人力士たちも、大相撲の伝統や歴史をきちんと理解しつつ、それぞれの民族や文化の特長も生かしながら土俵を盛り上げていく。それが、これからの大相撲のあるべき姿だろう。「日本人より日本人らしい」のフレーズは、そうした新時代にふさわしくない、いわばちょっと古くて狭い考え方の表れのように思える。

 それにつけても、いまの相撲界とその周辺が、白鵬ひとりにいかに大きな負担をかけているかを考えずにはいられない。

 深刻な不祥事続きで、かつてない危機にある大相撲。スター候補生もなかなか出てこないし、上位を狙えそうな日本人力士など見あたらない。そこで、「日本人より日本人らしい」一人横綱が一身に過剰な期待を背負うこととなっているのだ。

 それを十分にわかっている白鵬は、期待にこたえるために、模範的な横綱像を目指そうとしている。双葉山にあこがれ、それを頻繁に口にするのも、その一生懸命さの表れだろう。そうした姿勢が「日本人より日本人らしい」ともてはやされ、さらなる期待、言い換えればさらなる負担を呼ぶのである。だが、異国から来てそれほど年月もたっていない25歳の若者に、そこまで重い負担をかけていいものだろうか。

 白鵬は「イマダモッケイタリエズ」の故事まで口にする。大先輩に深く学ぼうとする姿勢は素晴らしい。とはいえ、それもまた、母国を遠く離れて奮闘する若者にかかっている、とてつもない重圧を思わせるのである。

 白鵬は、力士として、また相撲にとどまらない一人の競技者として、心技体それぞれの面できわめて高い境地へと進みつつあるように見える。が、九州場所の二日目に連勝が63で止まったことからみても、その相撲にはいささかの乱れが出てきているようだ。過剰なほどの期待と、それにこたえようとする不断の努力は、想像を絶する重圧ともなって横綱の心身にのしかかっているに違いない。

 前人未踏の境地へ、横綱白鵬にはもっと自由に、もっと心軽く歩んでいってもらいたい。「日本人以上に日本人らしく」などというよけいなものを背負う必要はない。この好漢には、はつらつと、のびのびと高みへと上っていってほしい。

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