この春、20年東京オリ・パラの主会場となる新国立競技場建設を請け負う、下請け業者の23歳の現場監督が自殺した。両親の代理人の弁護士によれば、月200時間近い残業を強いられて精神疾患を発症したことが死因だという。
早い話が、建設費1490億円を要する新国立競技場建設の犠牲者第1号となったことは間違いない。
私の手元にはすでに解体された国立競技場が建設(1958=昭和33年3月)されたとき、元請けの大成建設の現場監督だったY氏が上梓した『国立競技場建設記』(日刊建設通信社)がある。
それによると明治外苑競技場を解体し、総工費12億円の国立競技場建設までの約1年3ヵ月間に2人の犠牲者を出したと記されている。1人は作業中にスキップカーに轢かれ、もう1人は足を滑らして転落死している。事故が起これば警察署に連絡し、刑事にきてもらい、その原因、目撃者、殺人行為かどうか、作業員たちの素行なりを入念に調べた。さらに死因が判明するまで現場責任者は何度も警察署に呼び出され、事情聴取されたという・・・。
7月下旬、私は久しぶりに解体された国立競技場の跡地というか、新国立競技場建設現場に出向いた。高さ3メートルほどのフェンスで囲まれているため、なかなか内部の写真を撮ることはできないが、若いガードマンが小声で教えてくれた。
「東京体育館側からならよく見えますよ・・・」
そこで東京体育館側に行くと、なるほど俯瞰するように眺めると、内部が丸見えだ。シャッターを押しつつ私は思った。
この国家プロジェクトの建設現場で、今後何人の戦死者≠ェ出るのだろうか―と。
真夏日が続く中、何故か私は精力的に動き回った。えへん!
8月初旬は山形県天童市でインターハイの陸上競技を観戦した。20年来の友人である小林俊一さん、ケニア人ランナーを日本の高校・大学・実業団に紹介する、通称・ケニヤッタ小林さんと一緒だった。7月末、ケニア・ナイロビから帰国した小林さんと新宿のアスリートが集う居酒屋=u酒寮・大小原」で呑んでるとき、天童行きを決めた。
「岡さん、あんたは去年の岡山インターハイで仙台育英のヘレンの走りを見たよね。今年は私と天童に行かないか。あのね、ヘレンは3年後の東京オリンピックにケニア代表で出て、5000メートルか10000メートルでメダルを獲る。期待してよ・・・」
その言葉に頷いて天童に出向いたわけだが、小林さんが言う通りに女子3000メートルに出場したヘレンは終始先頭で走り、難なくインターハイ2連覇を飾った。3位はやはり小林さんが鹿児島の神村学園に紹介した、2年生のタビタだった。しかし、小林さんは不満顔だ。
「ヘレンの1着は当然。でも、去年同様にタビタが2位でワンツーフィニッシュをしてくれなきゃあ・・・」
天童からの帰途、私は小林さんと別れてJR福島駅で下車。駅前から高速バスに乗り、1ヵ月ぶりに故郷の南相馬に向かった。翌8月3日、(ルポ90号で書いた、3・11の津波で犠牲者54人を出した)みちのく鹿島球場で行われる、石川県の高校野球チームと地元チームとの交流戦を観戦するためだ。
3・11の翌年夏から石川県高等学校野球連盟は「東日本大震災被災地支援事業」の一環として、毎年夏に福島・宮城・岩手の3県の高校野球チームを招待している。今年は初めて石川県の金沢伏見高と小松市立高の2チームが、福島にきてくれたのだ。
午前9時前にみちのく鹿島球場に行き、顔見知りの福島県高等学校野球連盟理事長の小針淳さんに挨拶すると、石川県高等学校野球連盟理事長の下出純央さんを紹介してくれた。下出さんは言った。
「昨日の交流戦後に選手たちとバスに乗り、被災地を見て回りました。原発禍の街はまだまだ復興したとは思えないです。今後も微力ですが、支援を続けたいと思います・・・」
下出さんの言葉に、私は深く頭を下げた。
その後、いったん埼玉の自宅に帰った私は群馬に行き、さらに長野で取材。その足で松本に向かった。50年前の夏、松本でのインターハイに出場した私は、どうしてもある慰霊碑を前に両手を合わせなければならなかったからだ・・・。(つづく)
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