テリー伊藤という人の本職は何なのか、よく知らない。この頃はもっぱら、辛口の時評家、コメンテイターとして、主としてテレビで活躍しているように見える。活字メディアのテレビ時評もいろいろあるが、毎日新聞の「テリー伊藤の現場チャンネル」が面白い。 11月26日付の「現場チャンネル」では、高橋尚子の東京国際女子マラソン優勝を取り上げていた。 外国の友人が「なぜ日本人は、あんなに人が苦しそうに走っているのをじっと見ているのか。どこが楽しいのかわからない」と言ったところから、日本人のマラソン観は独得のものであることを説く。 「今回のマラソン中継をもっとも熱心に見ていたのは、データによれば年配の人たちだった。高橋の力走を見て、『私の人生もまだまだこれからだ。定年になったぐらいでエンドロールを出すわけにはいかない。大変だけど、もっとがんばらなくちゃ』というのである。
大画面だプラズマだ液晶だとテレビが変わっても、日本人は変わっていない。どんなにハードが変わっても、そこに写し出されるソフト、日本人は変わらない。あいかわらず届かないものに向かって、がんばりつづけるのだ」 私も陸上競技の中では、マラソンと駅伝がとくに好きだ。1つには、マラソンや駅伝は日常生活空間の中を走るからだ。もし、競技場の400mトラックを100回余り走るというやり方だったら、とても見るに耐えないものだろう。俗なる日常的な街路を、純な、聖なるランナーが走り抜けていくと、一瞬、街の表情が変わるような気がする。何でもない街角が、ひきしまって見える。そこが何ともいえずいい。 もうひとつは、42.195キロ(駅伝なら20キロ位)を走る間に、選手の体に春夏秋冬の季節があらわれては消えるふしぎさだろうか。表情や体、足、手の動き、汗のかき方・・・などを見ていると、体の中を四季が通り過ぎていくような気がする。 さらに言えば、選手が身体すべてを投げだして、これが私のすべてだ、隠すものは何もない、と言っているからだ。野口みずきのストライド走法、高橋尚子のピッチ走法、ポーラ・ラドクリフのあごをガクガクと上下に振るような迫力満点の走り方・・・など、走るというもっとも基本的な人間の動きが、こんなにも1人1人ちがったかたちであらわれるものか、と驚くのである。身体は個性そのもの、心そのものである。 もう一度、テリー伊藤に戻れば、「(高橋尚子は)シドニー五輪でVゴールをしたあと、底抜けに明るい笑顔で『楽しい42キロでした』と言った彼女を見て『日本人は変わった』と言われたが、そうではなかった。日本人は、実は東京五輪の円谷選手の頃と変わっていないのだ」という。 とすれば、先日の総選挙で自民党が圧勝したのは、どう説明すればいいのだろう。円谷幸吉選手は国のため、家族のため、つまりは日本的共同体のために走った。そういう共同体に支えられていたのが、自民党のはずだったが、こんどは共同体とまったく関係ない刺客候補者が落下傘降下して、大勝した。スポーツも政治も、よって立つ土壌は同じもののはずだ。 私はこう考えてみた。共同体から個へ、という流れは加速されている。共同体の社会から、個の社会へ向かっている。しかし、日本人にとって働くことの人生的価値は、依然として変わらない。遊ぶことよりも、死ぬまで働きたい、という勤労観だけは、いまだに変わっていないのかもしれない。 |