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vol.307-1(2006年 6月26日発行)
岡崎 満義 /ジャーナリスト
FW柳沢はなぜ重用されたのか―私の推理

 もう一度、素人FW論を書かせていただく。柳沢論。
かなり前から、私は日本代表としての柳沢のFWにいつも不安と不満をもっていた。シュートに特長のない、オールラウンドのプレーヤー。もし彼がMFなら、何の文句もない。よく走り、攻撃も守備もこなせる、実にバランスのとれた選手のように見えた。あまりにバランスがよくとれていることに、逆に不満があった。下手な鉄砲も数撃てば当たる、というが、撃たないのだから当たらない。たまに撃つからはずれる。

 おまえはFWだろ、FWなら攻守のバランスをくずしても、もっとシュートを打つことに渾身の力をふるったらどうだ。いつもそんなもどかしさを、彼のプレーには感じていた。

 もちろん、優秀なサッカー選手である柳沢には、サッカー選手としての理想的なイメージがあるにちがいない。それは狩猟民族的なものではなく、日和見主義の農耕民族的なライフスタイルにもとづくイメージなのだろう。隣が田植えを始めた、私もやろう。まわりをよく見ながら、突出することなく、まわりと調和することを第一に考えてやっていこう。柳沢のサッカーは、そんなふうに見える。

 私は柳沢が嫌いではない。運動能力も十分ありそうな、何よりも人柄のよさそうな、頭だってよさそうな、温和でやさしい青年、つきあってみれば、楽しい若者にちがいない。ただ、その性格はFW的ではない。他人を押しのけてでも、オレがボールをゴールに蹴り込むのだ、という激しい自己主張が見られない。本来、MF的な男が、まちがってFWになってしまった、そんな風に見えるのである。

 それにしても、ジーコ監督はなぜこんなにも柳沢を重用するのか、よく分からなかった。天才ジーコにしか分からない、天才的なものが柳沢にあるのかもしれない。

 しかし、いかに柳沢が天才的なFW的なものを隠しもっていたとしても、出場する試合で十分に発揮できなければ、そんな才能は彼にない、と言った方が現実的だ。プロスポーツは結果論の世界、潜在的な能力がいかに巨大であろうと、それが顕在化しなければイミがない。

 あれこれ考えた末、私はジーコ監督はこよなく日本を愛し、日本人が好きだ、ということではないかと思い至った。ブラジル文化とは対照的な日本文化、そして日本人を、ジーコは愛したのではないか。ブラジル人のジーコ監督は住友金属から鹿島アントラーズと選手を経験し、指導者になり、ついに日本代表の監督になった。

 長年つきあった柳沢はよき日本人の典型、と思ったのではなかろうか。2002年のトルシエ監督は、多分、フランス文化、フランスサッカーを、日本の若者たちに教え込もうと思ったにちがいない。フランス中華思想が感じられた。そんなに日本人が好きだったようには思わない。

 ジーコ監督はちがう。彼は日本人が好きになったのだ。だからこそ、より日本人的な美質を備えている(と私には思われる)柳沢を、こよなく愛する、つまりエコひいきするように見えたのではないか。よき日本人には、より自由をあたえて、日本人らしいサッカーをやらせるのがよい。ジーコ監督はそう決断したのだと思う。ジーコ監督が柳沢を偏愛したのは、日本人、日本的なものが好きになったためだ、と考えると、少し理解できる。

 ニッポンにFW(フォワード)はなしパス回すだけのFW(フォワード)サムライなりや

 こんな川柳をつくって、オーストラリア、クロアチア戦を見終わった。

「週刊朝日」6月27日号の「ブラックアングル」で、山藤章二さんがW杯のメキシコvsイラン戦を見て、両チームの選手、監督の似顔絵を描いていた。両チームに「顔面力」というものを感じたという。「顔面力」のFIFAランクがあれば、日本はかなり下位だ、とも書いている。前回、FWは異相であるべし、と書いたことに、どこか通じるように思った。戦う男の面構え、である

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  大坪 正則/帝京大学経済学部教授

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