ジェフ千葉監督のイビチャ・オシムさんが、日本代表監督になることがほぼ決まったようだ。実績もあり、「オシム語録」といわれるほどの、ある意味で言霊(ことだま)の人だから、どんなチームを育てようとするのか、その間に、どんな言葉を紡ぎ出してみせてくれるのか、大いに楽しみにしている。 「オシム語録」のひとつに「誰でもサッカーをすることはできる。しかし、アイデアのない人間はサッカー選手にはなれない」というのがある。よきフットワークをもつことは当然のこと、それにプラスするに、すぐれたヘッドワークが必要ということだろう。脳ミソが音をあげるほど、サッカーを、ゲームを、練習を、考えよ、ということだろう。 一方で、オシム監督は「走れ、走れ」を徹底する人でもある。90分間、誰にも負けないで走り回れる体力をつけることを、選手たちにきびしく要求している。野球でいえば、千本ノックか。FWの巻選手を見ていると、その片鱗がうかがわれる。 試合前、ハーフタイム、試合後に考えるのは当たり前、90分間走り回るゲームの中でも、なお考えよ、ときびしく要求しているようで、これは至難の技だろうが、ぜひその究極の姿を見せてもらいたい、と願っている。 「アイデア」という言葉からは、思いつき、ひらめき、といった軽いものを思い浮かべるのだが、オシム監督の「アイデア」は、もう少し深いものがあるのではないか、と思う。サッカーの練習、試合の時間以外、つまりサッカーからはなれた日常生活そのものを、サッカーに対する「アイデア」の源泉とすること、あるいは、日常生活の行動、茶飯事をサッカーへ向けて秩序立てよ、ということではないかと思う。日常生活の中に、自分なりにサッカーの磁場を作れ、ということだろう。 「アイデア」という言葉から、私はかつて取材した2つのエピソードを思い出す。1つは日本の五輪金メダル第1号、三段跳の織田幹雄さんのこと。1964年東京オリンピックで日本選手団の団長をした織田さんは、ある日、テレビで好きな時代劇映画を見ているうちに、ふと思った。映画に出てくる忍者は、ドロンと白い煙が出て目の前から消えるとき、必ずうしろに反りかえるように飛び上がって姿が見えなくなる。すべてそうだ。その頃、走高跳はベリーロールという、胸からバーを跳び越えていくやり方が全盛だった。ひょっとして、より高く跳ぶには、背中から反りかえるようにして跳ぶ方がいいのではないか。織田さんはその「アイデア」を、走高跳の専門コーチに話してみたが、一笑に付され、ハナもひっかけられなかった。 ところが、1968年、メキシコ五輪へ行って見ると、何とフォスベリー選手が背面跳をやっているではないか。織田さんは「あのとき、コーチが試してみてくれていたら、忍者跳という名で呼ばれていたかもしれません」と笑ったものだった。 2つ目は、ボクシングで世界チャンピオンになった輪島功一さん。試合中、蛙跳びという不思議なスタイルを見せてくれたりしたが、もうひとつ「あっち向いてホイ」戦法がある。 輪島さんがタクシーに乗って、運転手の後の席に座っていたときのこと、運転中の運転手がひょいと顔を右に向けて外を見た。輪島さんも思わずつられて、パッと右を見た。「試合で相手と対戦中、パンチをふるい、一瞬にらみ合いになったとき、ひょいとこちらが顔を横に向けたら、相手も思わず同じ方向に顔を向けるのではないか。そのすきにすかさずストレートかアッパーカットを一発放てば、文句なく決まるのではないか」 相手がつられなかったら、逆に無防備になった自分が強烈なパンチをくらうかもしれない。大きな賭けだったが、これがみごとに成功した。 この2つの例は、何気ない日常生活の中から、スポーツの「アイデア」を引き出したものだ。「アイデア」の根は、まちがいなくふだんの生活の中にある。生活の隅々にまで目を光らせて、自分の起居動作の中から「アイデア」を発見することが、スポーツ選手にはとくに要求されるのではないか。 |