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vol.327-1(2006年11月14日発行)
岡崎 満義 /ジャーナリスト
関西弁と書き言葉

 読売新聞夕刊に11月6日〜8日の3回にわたって、「田口が語るおもしろいメジャー」という記事が連載された。ワールドシリーズを制覇したカージナルス・田口壮選手のインタビューだ。2勝1敗で迎えた第4戦、1点リードされた7回、無死2塁で田口は代打に送られた。田口はシリーズの流れを決めるバントをみごとに成功させるのだが、そのときの心理状態を、田中富士雄記者が丹念に聞いている。6日分の冒頭はこうだ。

 ―並の緊張感じゃなかった
「だれもが送りバントやって、分かり切ってるやろ。『失敗したら流れ、変わってまう』とか『それで試合、負けたらどないしょ』とか『このミスで世界一、逃すんちゃうか』とか、そこまでマイナスに考えてな。心臓の音が(のど辺りを指して)響いとったね」

 7日分の冒頭では、バント成功のため、足元にも“細工”を施したことを上手に引出している。

 ―かえって不安にならないか
 「怖かった。ほんでも、あのシリーズで流れが変わってたやん。自分のスパイクの刃をチェックしてみてん。ほしたら1ミリか2ミリぐらい、すり減ってた。で、新品にした。セントルイス、雨が降ってたし、こら滑るわけにはいかんと」

 全体に巧みなインタビューで、面白く読めた。田口の繊細な野球感覚が、よく表現されているように思った。だが、ひとつでけ、ひっかかることがあった。内容はOK、表現方法に?を感じた。

 田口の関西弁の口調を、忠実に再現しようとしている点が妙に気になった。「バントやって」「やろ」「変わってまう」「どないしょ」「ちゃうか」「考えてな」「響いとったね」「ほんでも」「変わってたやん」「してみてん」「ほしたら」「こら」など。これらの言葉は肉声で聞けば、柔らかい関西弁として、何の抵抗なく耳に入ってくるだろう。ところが、そのまま表記されると、とたんに目ざわりになってしまう。多分それは、ふだんは喋らない関西弁を、自分(の頭の中)で発音しなければならないことからくる違和感、うっすらとした不快感であろう。

 「だれもが送りバントだと、分かりきってるでしょう。『失敗したら流れが変わってしまう』とか『それで試合に負けたらどうしよう』とか『このミスで世界一を逃すのではないか』とか・・・」と、ふつうに表記しても、意味内容に変化はない。

 忠実に(と筆者が考える)関西弁で表記するメリットは何だろう。ふだんの田口の喋り方がわかる。そのことによって、田口の庶民的な飾らない人柄がにじみ出る、より田口に親しみを感じさせる、ということだろうか。

 しかし私には、関西弁の語尾の多用がうるさく感じられる。喋り言葉としての関西弁はむしろ好きなのだが、このように書き言葉の中に多用されると、そこに意識が引っぱられて、ひっかかりひっかかりしながら読むことになる。読むリズムが崩される。これだけ筆者が関西弁を忠実に再現しようとする意味は何だろう、と、その方が気になってしまう。

 座談の名人、司馬遼太郎さんの肉声は柔らかい関西弁で、耳に気持ちよく入ってきた。絶品の話術だった。一般的にどんな地方の方言でも、耳で聞くかぎりはすんなり入ってくる。意味がわからない部分があっても、音楽として聞いて心地よい。司馬さんの話し言葉は、意味もよく分かったし、音楽としても気持ちよく聞けた。その司馬さんは、対談や座談会の自分の発言中、関西弁になっている部分はほとんど標準語に直した。関西弁を文字で見ると、余計なもの(妙になれなれしい感じ、ときには人をバカにした感じなど)が付加されて、読む人に不快感を与えることがある、という考え方だった。司馬さん流の文章心理学だ。今回のインタビューも、関西弁は最小限にとどめた方がよかったのではないか。

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