大相撲・九州場所は、横綱朝青龍がダントツの強さで全勝、19回目の優勝で幕を閉じた。大関陣が今ひとつで、追い上げる者がいないのが残念だった。 場所後開かれた横綱審議委員会で、朝青龍が対稀勢の里戦でみせた「けたぐり」が話題になったようだ。石橋義夫委員長が記者会見して「横綱ともあろうものが、けたぐりという奇襲作戦をとるのはおかしい。横綱はいつでも受けて立つ相撲、堂々たる相撲を取ってほしい」と注文をつけていた。 相撲関係者の葬儀をすっぽかして、モンゴルに帰国したとか、先輩旭鷲山に粗暴なふるまいがあったとか、何かにつけて立ち居ふるまいをよく注意される朝青龍だが、今度は相撲内容にたち入った注文がついた。いわゆる横綱相撲を取りなさい、ということだろう。 横綱相撲といっても、決まった型があるわけではなかろう。石橋発言にある「いつでも受けて立つ」型は、たとえば名横綱双葉山のイメージがありそうだ。片方の目が殆ど見えなかった双葉山は、全身を目にして、つまり「心眼」を磨き上げて「受けて立」ったという。しかも立った瞬間、後の先、目にもとまらぬ早技で自分十分の四つになっていたようだ。 それは横綱の究極の姿かもしれないが、その後に出た横綱がみんなそうであったわけではない。速攻一直線の電車道寄り倒しの柏戸、相手の力を柔らかいスポンジのような体で吸収しつくして、押しつぶしてしまう大鵬、ちぎっては投げ捨てる北の湖、・・・さまざまなタイプの横綱を見てきた。それなりに言うに言われぬ魅力があった。 朝青龍の魅力は何だろう。瞬発力のもの凄さ、技のキレの凄さである。これまでに何度か、琴光喜を目よりも高く持ち上げて、裏返しに土俵に叩きつけた力技も、怪力というより一瞬の集中力、人並みはずれた瞬発力を感じさせるものだ。力士としては小兵の部類に入る朝青龍が、いとも簡単に大型力士を土俵にはわせてしまうのは、この瞬発力だ。全身バネのような体は、全盛期の千代の富士を思わせるが、それよりしなやかで柔らかい技がくり出されるように見える。 問題にされた「けたぐり」も、考えたあげくの作戦というよりは、瞬間的・反射的に飛び出したとっさの技だろう。 私はひそかに、朝青龍に「ガキ大将横綱」と名付けて楽しんでいる。世の中にガキ大将は消えてしまって、かわりにいじめがふえている。スポーツの世界でも、ガキ大将的な雰囲気をもつ選手は殆どいなくなった。その点では朝青龍は近頃珍しいタイプである。ガキ大将横綱がどのように大成していくのか。15日間の相撲で1回、「けたぐり」が飛び出したからといって、横綱らしくない、と目クジラ立てることではないと思う。 |