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vol.347-1(2007年4月10日発行)
岡崎 満義 /ジャーナリスト
ジャッキー・ロビンソンの日

 海の向こうで、大変な松坂フィーバーだ。初登板で初勝利、ホームランも打たれたが、三振も10個奪った。ジャイロボールという魔球を投げたかどうか、分からないが、多彩な変化球のコントロールのよさは、十分印象づけたようだ。

 ♪野球小僧に会ったかい、男らしくて純情で・・・という、灰田勝彦の古い歌、甘い歌声を思い出した。スプリングキャンプのTVニュースで、レッドソックスのかつての名外野手ペスキーさんが、たしか80歳代半ばの高齢のはずだが、元気な顔をグラウンドに見せていたシーンも、思い出した。そこから連想はさらに小西得郎さんへとぶ。志村正順アナウンサーとの名コンビの解説者。「何と申しましょうか・・・」とゆっくりした口調の名解説。「老らくの恋も忘れて球遊び」という、小西さんの俳句も思い出す。ゲームの勝敗を超えて、いろいろなことに思いが飛んでいく。これが球春のよさだ。喜びだ。

 ところで、4月6日付日刊スポーツに、小さな大リーグ記事が載っていた。
「ドジャースが15日のパドレス戦で、全員が背番号42を付けることが決まった。ジャッキー・ロビンソンが大リーグ初の黒人選手となった記念日で、今年が60周年。『彼の背番号を全員が付けることで、チームの偉大な先輩の功績をたたえたい』とJ・マッコード副会長。当日はグリフィー(レッズ)も42番でプレーする意思を表明している。42番は10年前に全球団で永久欠番と決められ、現役で使用が許可されているのはリベラ(ヤンキース)だけ」

 粋なことをやるものだなあ、というのが率直な感想だ。こういうとびきりのアイデアは、誰が思いつくのか。うらやましい。大リーグはとにかく名選手を大切にする。これだけは日本のプロ野球も真似してもらいたいものだ。東京ドーム球場など、なぜ「ONドーム球場」と名付けなかったのか、と思ったりする。ONで稼いだのではなかったのか。

 それはさておき、ジャッキー・ロビンソン。小学生の頃、映画館で白黒の短いニュース映画で、彼のプレーぶりを見たことがある。大きな目、異様に黒光りする顔、かもしかのようなスピード・・・そんな印象が今も残っている。当時のオマリー会長の英断が、黒人選手に大リーグの門戸を開放した。差別の壁を破ったロビンソンの功績は忘れられない。その道筋は、野茂、イチロー、松井、松坂・・・など日本人選手にもつながっていると言ってもいいだろう。

 ロビンソンの後に続け、とばかり、黒人アスリートが差別を乗り越えて出てきたことによって、スポーツ界はより多彩に、より豊かになった。ジャッキー・ロビンソンにつづいて、時代に大きな意味を与えた黒人アスリートを2人あげるとすれば、マラソンのアベベ・ビキラ、ボクシングのモハメド・アリだろう。アベベとアリは1960年のローマ五輪の金メダリストだ。テレビがいよいよ、世界に普及し始めた頃で、黒人アスリートの大いなる可能性を、世界中にはっきり見せつけた。この3人の功績は、どんなに評価してもしすぎることはない。
 
 私にとって忘れられない黒人アスリートは、実はもう1人いる。1964年の東京オリンピックで、男子100mと400mリレーで金メダルをとったボブ・ヘイズだ。黒い弾丸、あるいは黒い竜巻が走り抜けるようなド迫力に、心底シビレた。400mリレーのゴールテープを切って、青空に向かってバトンをポーンと投げ上げたシーンは忘れられない。記録はカール・ルイスの方がいいのだが、迫力という1点で、ボブ・ヘイズの印象の方が強い。記録より記憶、その存在感こそが、スポーツを見る者にとっての宝である。

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