スポーツにおいてプロとアマをどこで一線を引くか、基準はいろいろあるだろう。技術のレベル、お金、グローバルな選手の移籍があるか・・・などが考えられるが、私は単純な目安をひとつもっている。試合形式がトーナメント方式はアマ、リーグ戦方式がプロ、というものだ。
甲子園の高校野球のように、1戦ごとに勝ち上がって頂点をきわめよう、負けたら終り、という明日なき戦いがアマチュアの最たるものだ。まさに一期一会の試合を、いのちを賭けて戦うのだ。今夏、決勝戦で佐賀北高に敗れた広陵の監督が、球審の判定に怒って、試合後、「あのボール判定はひどい。選手はいのちを賭けて戦っている」と話したのは、まさにアマチュアだからである。米メジャーリーグの試合を見ていると、ボール・ストライクやアウト・セーフの判定をめぐって、監督が審判に噛みつかんばかりに抗議するシーンがよくうつし出される。しつこく食いさがる監督は、だいたい退場になる。しかし、退場はそのゲームだけで、翌日はケロリとしてベンチに座っている。素早い追放復活である。プロの試合は明日のある戦いなのだ。
同じ相手と何回もくりかえし戦う。何年にもわたって戦う。多分、そこにはいつしか勝敗を越えたある種の友情のようなものが生まれてくるのではないか。勝つことを目標とすることは、アマもプロも変わりはないが、敵味方を越えた、というより大きく包みこむ連帯感のようなもの、試合のあとは、ラグビーで言うノーサイドの感覚を強くもつのがプロであろう。アマチュアの試合は非日常的な祝祭、プロのそれは日常的な仕事の世界、ということかもしれない。
その昔、巨人・江川卓投手が中村稔コーチに「腕が折れよとばかり投げるんだ!」ときびしく指導されたとき、「腕が折れたらボールは投げられません」と口ごたえして、ひどく叱られた、と報じられたことがあった。これなど、コーチがアマチュア的で、江川投手は立派なプロだった、ということになろうか。いわゆる精神主義がハバを利かすのは、明日なき戦いのアマチュアである場合が多い。
作家の色川武大さん(故人)は「スモウでも15勝負けなしなんて、ちっとも面白くない。8勝7敗か9勝6敗のあたりに、人生の味がある」という意見の持ち主だった。1つでもたくさん勝とうとして、結果的に8勝7敗になってしまうところに、プロスポーツの面白味を見出していたのだ。負けることの中にも、深い意味、価値が認められること、そこから次の工夫を重ねること、持続すること、そこにプロの意味がありそうだ。だからといって、アマよりプロが上、といっているわけではない。人生的な価値観の違いである。
こんなことを考えたのは、将棋の加藤一二三九段が公式戦で1000敗を記録した、というニュースを読んだからである。負けが込めば生き残れないプロの世界で、歴代最多の2262局の対局を重ねてきた。現役生活54年、力、つまり体力、気力、技術力がなければ1000敗もできない。心底、将棋が好きでなければ2262回も戦い、1000敗もできない。スゴイ!
の一言である。プロの鏡だ。みごとなプロ魂だ。
将棋がスポーツか、という人もありそうだが、中国では将棋もスポーツの範ちゅうに入っているようなので、あえて加藤さんの将棋も話題にしてみた。
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