最近読んだ本の中で、村上春樹「走ることについて語るときに僕の語ること」が大変面白かった。長編小説を書くことは、マラソンを走ることに似ている、と村上さんはズバリ言っているが、たしかに、書くことと走ることの微妙なからみ具合が魅力的な文体で語られている。期せずして、村上文学の創作の秘密を垣間見るような気分になる。
1982年、33歳のときに走り始め、以後20数年にわたって、ほぼ毎日10キロのジョギング、そして年に1回はフルマラソンを走り、100キロマラソンやトライアスロンにも挑戦するという「走り」の本格派である。作家は座業だから、その反動か体を動かすスポーツ好きは結構多いが、これほど本格的に走ることに打ち込んでいる作家は珍しい。市民ランナーのレベルを越えて、びっくりするくらいの精進ぶりだ。
サロマ湖100キロウルトラマラソンに出場したときの話が、もっとも印象深かった。
スタートして55キロの休憩地点までは、わりと淡々と走っていた。いつものジョギングの調子でいけた。それが、55キロから75キロあたりは「とんでもなく苦しかった。緩めの肉挽き機をくぐり抜けてる牛肉のような気分だった。・・・身体がばらばらになって、今にもほどけてしまいそうだった」
「僕は人間ではない。一個の純粋な機械だ。機械だから、何を感じる必要もない。ひたすら前に進むだけだ」と自分に言いきかせながら走った。「75キロあたりで何かがすうっと抜けた。そういう感覚があった」「自動操縦のような状態に没入してしまっていたから、そのままもっと走っていろと言われたら、100キロ以上だっておそらく走っていられたかもしれない」「そこでは、走るという行為がほとんど形而上的な領域にまで達していた。行為がまずそこにあり、それに付随するようにぼくの存在がある。我走る、故に我あり」
そうなってくると、マラソンのゴール、終わりということに、大した意味はなくなってくる。とりあえず区切りがつくだけのこと。生きることと同じだ、という。
「終わりがあるから存在に意味があるのではない。存在というものの意味を便宜的に際だたせるために、あるいはその有限性の遠回しな比喩として、どこかの地点にとりあえずの終わりが設定されているだけなんだ、そういう気がした」という、ある高みに到達しているように見えた。
随分長い引用になってしまったが、このあたりの走る自分の体、感覚についての考察が、何ともいえず面白い。これが長く走っていると、時に訪れるというランナーズ・ハイの状態かもしれない。走ることによって、確固とした自我がゆらいでくる。忘我の境地。「(走るという)行為がまずそこにあり、それに付随するようにぼくの存在がある」つまり「我走る、故に我あり」。走ることによって、新しい自己が発見されてくる、といってもいいかもしれない。パスカルの「我思う、故に我あり」という思弁的な言葉が、身体行為的な言葉として意識されている。ここが面白い。汗をかく体の中に立ちあらわれてくる時々刻々の新しい自分と出会うところにスポーツの深い意味がある、とわかる。こういう自我のありようを体験すれば、今はやりの自分探しといったうさん臭い迷路に迷い込むこともなかろうと思う。
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