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vol.365-3(2007年8月17日発行)
滝口 隆司 /毎日新聞大阪本社運動部記者
今も聞こえる「甲子園の詩」

 連日、甲子園に通い続けている。16強が出そろい、17日からは3回戦が始まった。お盆の観戦客もピークを過ぎ、いよいよ終盤戦に差し掛かる。

 この夏は高校野球に縁のある方々が、甲子園大会の時期に合わせるかのように亡くなった。戦後第1回大会となる1946年夏の優勝投手、浪華商の平古場昭二さんが香川・小豆島の自宅で孤独死しているのが見つかった。73年の選抜大会準決勝で作新学院の怪物・江川卓との対決を制し(準優勝)、同年夏に優勝した広島商のエース、佃正樹さんも食道がんのため52歳という若さで逝った。そして、もう一人残念でならない人がいる。作詞家、阿久悠さんだ。

 阿久さんは選抜大会の大会歌「今ありて」の作詞家でもあるが、私は甲子園の時期になるとスポーツニッポン紙上に掲載される阿久さんの詩を読むのをひそかな楽しみにしていた。その日の1試合を取り上げ、淡々と詩に歌い上げる「甲子園の詩(うた)」は79年から続いてきた。

 阿久さんが亡くなった翌日、8月2日付の大阪本社発行版のスポニチは「阿久悠さん逝く」の見出しを掲げ、延長十八回を戦った79年夏の箕島−星稜戦と、昨夏の決勝引き分け再試合、早稲田実−駒大苫小牧戦の「甲子園の詩」を一面に全文掲載した。箕島−星稜戦はその連載を継続執筆するきっかけとなった試合であり、早稲田実−駒大苫小牧戦は最後の詩となった試合である。

 阿久さんは、詩を説明する原稿をいつも書き添えた。日本国中が魅了された昨夏の決勝再試合を「二〇〇六年 いい夏」という詩に表現した阿久さんは、高校野球の魅力を次のように書いている。

 「ハイスクールの生徒の野球をなぜ騒ぐと、アメリカのバスケットボールの選手が言ったそうだが、飾り物や芸を取り払ったものがスポーツだと、日本人は知っているということだ」

 ビジネスやマネジメントが各スポーツ界に取り入れられ、試合の過剰な演出やファンサービスが花盛りだ。芸能タレントを使って視聴率を上げようとするテレビ局。スポンサーを集め、チケット販売やグッズ収入、放映権の高額入札を仕掛ける代理店。そして、競技団体までもが注目度を高めようと、あの手この手の策を練る。

 だが、そこにスポーツの本質はない、ということを阿久さんは肌感覚として知っていたのかも知れない。そして、日本人が本能的にスポーツの本質を見極める能力を持ち合わせていることも、だ。「飾り物や芸を取り払ったものがスポーツ」。この短い言葉の中に、スポーツを考えるヒントが凝縮されてはいないか。

 最高気温の記録が更新されるような猛暑。しかし、15日の第2試合、仙台育英−智弁学園戦には5万人の観客が詰めかけた。ネット裏の記者席から外野席を見ると、通路が見えなくなっている。あれは満員の証拠だ。その目の前で仙台育英のエース佐藤由規が155`を出した。スコアボードに球速が表示されると、一瞬のどよめきの後に大きな拍手がわき起こった。飾り気なしのすごさに、観客は感嘆した。

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