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vol.393-1(2008年3月18日発行)

岡崎 満義 /ジャーナリスト
グラウンド・パパ江藤哲美さんのこと

 江藤慎一さんが亡くなった。中日ドラゴンズ時代、その豪放なバッティングで人気を集めた。セ・パ両リーグで首位打者をとったのは、たしか江藤さんだけだ。記憶に残る強打者だ。

 江藤選手の話になると、私は江藤さんの父・哲美さんのことを思い出す。江藤選手の放出を決めた水原茂・中日監督に反発、中日を出るくらいなら辞めたほうがましだ、とゴネたときのことだ。トレードは不名誉なこと、まだ、一つのチームに骨を埋めることが美徳とされていた時代である。その取材で父・哲美さんを、名古屋のマンションに訪ねたことがある。

 「昨夜も慎一と言いあったんです。中日以外のチームで野球はせん、ちゅうて辞めたおまえを男らしい態度だ、とほめてくれる人もたしかにある。けれども、そげんなこつはいつまでも人の心に残るもんじゃなか。どこのチームにトレードされても、最後まで力の限りやり通した男こそ、プロ選手として最高の生き方じゃと思う、と私は言うたんですが・・・」

 息子も私と同じ肥後もっこすの血をひく男です。とても私の言うことなんか・・・と少し淋し気に笑った。

 熊本商→日鉄二瀬→中日と10数年にわたる江藤選手の記録を、哲美さんはすべてスクラップブックに貼っていた。それだけでなく、江藤選手の出場する試合は、大阪であれ東京であれ、仕事を休んですべて見に行ったという。そのために借金もかさんだが「慎一が中日に入団した時の契約金(600万円)で、みんな倍にして返しました」と言った。

 哲美さんも野球選手だった。といっても、そのキャリアはノンプロ八幡製鉄チームで、都市対抗に出て1度代走に起用されたぐらいだった。「戦争中、マライで出撃前の菊水特攻隊員と、交歓試合をしたことがあります。もうすぐ死んでいく若者たちだから、好きな野球の相手をしてやってくれ、と特攻基地の隊長に頼まれたんです」と、哲美さんは昔を思い出す表情になった。死を前にした若者が一心に球を投げ、バットを振る姿が、哲美さんの戦後の人生を野球一色にしたといってもいい。「戦後の荒れた、暗い時代を、野球で明るくしてやろう、と思いましてね。中学校の野球のコーチをずっとつづけました。コーチ料は米3升でした」

 そういう父親に育てられたのが、江藤慎一選手だった。弟の省三さんも、巨人、中日で活躍した。哲美さんはグラウンド・パパのはしりだったかもしれない。哲美さんの野球を心の中で支えたのは、若い特攻隊員の姿であり、野球が楽しくできる平和な時代への強い願いだった、と思う。

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