昭和33年(1958年)といえば、今からちょうど50年前である。「もはや戦後ではない」と高らかにうたいあげた経済白書が出たのが昭和31年。その言葉をみんなに実感させたのが、長嶋茂雄の出現だろう。南海ホークスに決まりかけていた長嶋を、品川主計・巨人球団社長(当時)が横取りした格好で巨人・長嶋、のちの“ミスタープロ野球”が誕生した。 「週刊ベースボール」最新号に、豊田泰光さんが、同時代人としての長嶋を熱っぽく語っている。大病をしてからの豊田さんは、“野球伝道師”となったかのように、日本プロ野球の現状を大いに憂えている。一応、成功したかに見えるペナントレース最後のクライマックス・シリーズの欺慢性を鋭く指摘したり、まさにプロ野球の正義漢、貴重なご意見番である。 「・・・神宮へ出かけた水原(茂)さんは、長嶋さんのプレーを見て一言。『これをダイナミックと言うんだ!』。よう似とるんですよ、2人は。で、58年は、日本プロ野球史上で最良の年となった(西鉄にとってもそうでした)。水原さんは長嶋さんがいたからこそ、自分の理想の野球がやれたのですが、長嶋だって水原さんがその個性を受け止め、自由にプレーさせたから、その力と魅力を十分に発揮できたのです。プロ野球ファンは、この年初めて本当の『ワクワクドキドキ』を知ったのじゃないでしょうか」 長嶋さんは立教大学時代、後楽園球場によく足を運んで、選手たちのプレーを見ながら、オレならこうやる! と、自分がプロ選手になったつもりでひとつひとつのプレーをイメージしていた、というから、そのショーマンシップは筋金入りである。「見せる芸としての野球を心がけていた長嶋さんは、空前絶後の人」と、ONの一方の王さんも後に語っている。 この豊田さんの指摘で目新しいところは、長嶋選手を上手に使いこなした水原監督に言及している点だ。 「(テレビの)画面に長嶋さんのアップも映り、水原さんのサインを出す粋なポーズや水車のように腕を回すアクションが映ると、ファンはもうそれだけで楽しくなり、満足だったのです。まさに『主役と監督』が作る名画ですよ! プロ野球はいつもこの名画をファンに提供しないといかんのですよ」 文章はこのあと、今の監督は偉そうにしすぎて、粋な感じがまるでない、という批判につづいていくのだが、たしかに水原監督にはそういうアカ抜けした、お洒落なところがあった。そういう粋な人が、武骨な川上や千葉をひきいていたのだから面白い。 水原さんは慶應の学生時代、女優田中絹代さんと浮き名を流しただけのことはある、と思ったものだ。昭和50年、熊井啓監督の「サンダカン八番娼館
望郷」に出演したあとの田中絹代さんと、熊井監督の対談をしたことがある。田中絹代さんは女優生活を話してくれたあとで、はるか昔の水原さんとのラブアフェアを、あるところはドキリとするほど生々しく、でも優雅に語ってくれた。ま、それは蛇足だが、「監督と主役」(主役は選手である!)のよき関係、晴々とした関係は大切だ。映画でいえば、黒澤明監督と三船敏郎、木下恵介監督と佐田啓二、などがすぐ思い浮かぶ。プロ野球もふたたび、そういうふうになってもらいたいものだ。 |