1980年代以降、まだどことなく鎖国的な匂いの残っていた日本のスポーツ界に、大きな風穴をあけて、世界へ飛び出し、アスリートのライフスタイルに強いインパクトを与えたのは―ゴルフの岡本綾子、野球の野茂英雄、サッカーの中田英寿、マラソンの有森裕子の4人がきわ立っている。彼らのおかげで、日本のスポーツ界はどれだけ風通しがよくなり、見る人間にもこれまでにない、大きな楽しみを与えてくれたことだろうか。そのことは忘れてならない。 その1人、中田英寿のインタビューを久しぶりに読んだ。(「Number704号」=6月5日号) 中田は'06年W杯ドイツ大会を最後に、サッカー界から姿を消した。彼のプレーぶりを目にすることはなかった。インタビューによれば、彼なりの“サッカー行脚”をつづけているようだ。サッカーの頂点から下りて、広いすそ野でボールを蹴って楽しんでいるようなイメージだ。それでも、いまの日本サッカーに対して、きびしい目を光らせている。 「(日本人が持っている)一番の特徴は、勤勉さだと思う。言われたことをほんとにオーダー通りにやる。その能力は高いと思う。ただ逆に言うと、言われないことに関しては“言われない通りにやらない”。応用がきかない」「もともとサッカーは個性のあるスポーツで、いろいろな特色のあるやつが集まって、どうにかバランスをとるのがチームだったでしょう。でも今は、チームがあって、そこに当てはまる人間がいいんだ、というふうに見えます。チーム戦術は大事なんですけど、選手のほうも、歯車のひとつになっていればいいやと思っている感じ」 こういう日本批判は、特別目新しいものではない。これまでもたくさん読んできたような気がする。トルシエもジーコも同様な批判をしていた。トルシエは「車はまったく通っていなくて危険ではないのに、赤信号だと渡ろうとしないのが日本人」と言ったし、ジーコは「私が指導したことを書いたノートを、ゲームの始まる直前まで復習している」と書いていた。世界で経験をつんだ中田が、結局、同じ批判をしているところが、面白いといえば面白い。変わってきたようで、本質的なところは変わっていない日本サッカー、ということか。 スポーツは楽しむものである前に、学ぶべき教育的価値の高いもの、という意識が抜けないかぎり、中田のような批判は終わるときがない、ということだろうか。日本にも「十人十色」といういい言葉があるが、そのことがうまく結果につながることは少ない。チームワーク至上主義で、“十人一色”になることが、むしろ善であるとされるようだ。1人1人の個性をいう前に、スポーツにおける個人の自由とは何か、そのことを1人1人が深めることが大事なのかもしれない。最初にあげた4人―岡本、野茂、中田、有森には、その自由な感じが強いような気がする。なぜそうなのか。どのようにして、自由な匂いのするアスリートは生まれてくるのか、誰か研究してもらいたい。 |