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vol.407-1(2008年7月1日発行)

岡崎 満義 /ジャーナリスト
為末大選手の奇蹟

 ある業界、仲間内だけで使われる特別な言葉がある。隠語。ときに方言にも似た味わいや奥深い意味があって、私は好きだ。たとえば、「エンジェル・シェア」。ウィスキーの原酒を樽詰めして、山峡のひんやりとした倉庫に、10年も20年も寝かせて熟成させる。その間に、荒々しかった原酒はまろやかな味に変わっていくのだが、原酒の何%かは、樽の木目を通して蒸発する。その目減りした分を「エンジェル・シェア」=天使の取り分、と言う。何とも優雅な響きの言葉である。

 6月27日、北京五輪代表選考会を兼ねた陸上の日本選手権での為末大選手の鬼気迫るほどの快走を見て、なぜかそんなことを連想した。400m障害レースの後、「自分でもびっくりしている。なぜこうなったのか、分からない。ありえない力がでた」と、予想もしない優勝について、正直に語っている。長く第1人者の位置を保持しつづけた30歳の為末は、このところ怪我に苦しみ、満足に走れない日が続いていた。レース直前のテレビのインタビューも、膝の痛みで思うように練習ができていない、とあきらめ顔で語っていた。事実、予選では9位、ギリギリの順位で決勝に残った。一発逆転はあるのか。成迫の目覚しい成長ぶりが伝えられていたから、奇蹟でも起こらないかぎり、為末の優勝はない、と思っていた。ところが、奇蹟は起こったのである。

 奇蹟のレースをふりかえった為末の言葉を集めてみよう。

「声援が聞えたら、気持がかきたてられて、精神的なロックがはずれた」
「レースが始まる前に自分を抑えられなくなって、かっとばしてしまった。リミッターを切ったとしか言いようがない」
「僕が一番緊張していた。1人だけ、インターハイの時みたいな顔をしていて。でも、何かが起こるかも、という予感もありました」
「日本選手権で何か起きたら、北京でも何か起こるかもしれないと自分に暗示をかけていた」
「今年は意外なことが起きる年かも。メダルを狙ってやるだけのことをやりたい」
 
 思いがけない“新しい自分”に出会った驚きが、どの言葉からも読みとれる。1976年のモントリオール五輪女子走り高跳びの日本代表となった曽根幹子さんの言葉を思い出した。

 「練習をくりかえして何年もたつうちに、いつしか怪我に見舞われる。トップ・アスリートには避けられない宿命のようなものだ。怪我の間はたいしたトレーニングもできず、悶々たる日々を送ることになる。やっと怪我が治って、でも練習不足、大きな不安を抱えて試合にのぞむ。そんなとき、思いもよらない好記録が出ることがあるんです。それを私たちは“たまりバネ”と言っています。怪我が思わぬ休養となって、新しい力が出てくるのかもしれません」

 それは長く辛い努力をつみ重ねた人だけに、スポーツの神さまが与えてくれるご褒美かもしれない。為末の走りにも、その“たまりバネ”的な力が与えられたのだろう。背中に羽の生えた天使が空を飛ぶように、軽々と走る―“エンジェル・ラン”とでも名付けようか。第2コーナーから第3コーナーへかけての走る姿の美しかったこと!

 走り終えたとき、頬の肉の削げた為末の顔を、誰かに似ている、と思った。大げさでなく、泰西名画でよく見る心なしか愁いを含んだキリストの顔に似ていた。6月28日の新聞(日刊スポーツ・毎日新聞)で見たクローズアップ写真で、いっそうその感を強めた。久しぶりに、近寄りがたい雰囲気を漂わせる人間が登場した、と思わせるレースであった。

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