今年のイチローはどうしたのだろう、と思っていた。毎年、4月はエンジンを温める時期、5月から次第に調子が上ってくる。そんなイチローを7年も見てきたから、5月が過ぎ、6月が過ぎてもヒットが量産できないのは、何か異変が起こっているのではないか、と思ったりした。35歳という年齢によるものか、低迷つづきでGMや監督が交代したり、メンタル面で不具合がおきたのか、などといろいろに想像していたが、7月に入って5打数5安打のまとめ打ちのあと、3安打の日がつづいたり。やっとイチローらしさが見えてきて、ホッとした。いつものイチローが帰ってきた。 年間200本以上の安打を7年もつづけていると、それが当たり前のことに思ってしまうが、また、それを当たり前のことに思わせてケロッとした顔でいるイチローは、あらためてすごい、と思う。 イチローとは何者か。私は一言でいうなら超一流のエピキュリアン、だと思っている。至上の快楽主義者。いのちがけで「私」を磨きつづける男、それがエピキュリアンである。スポーツ新聞で、マリナーズ低迷の一因を、イチローのリーダーシップのなさ、チームをまとめ、引張っていく力のなさ、と指摘したものがあった。真のエピキュリアンは、チームワークか、個人技か、といったレベルは、はるかに超えた美的存在である。他人のことを考える前に、まずいのちがけで「私」を磨くことで、結果的に他人を楽しませるのが、エピキュリアンである。 昔、ビートたけしさんと伊集院静さんとで長嶋茂雄について対談したことがある。私は司会をしながら、たけしさんが繰り出す長嶋ゴシップに腹を抱えたが、そのとき、「イチローはほんとにスゴイけど、長嶋さんみたいななつかしい感じはないよね」と言ったことを今でも覚えている。たしかにそうだ。イチローはスゴイ。でも、なつかしさは感じない。私は長嶋さんと完全に同時代を生きたのだから、それも当前といえるが、それだけではあるまい。2人の資質の違いが歴然としてある。 イチローはエピキュリアン。では、長嶋さんは? エンターテイナーである。昭和34年6月25日、初の天覧試合でサヨナラホームランを打って以来、時代を沸騰させつづけた男、それが長嶋さんだ。エンターテイナーもエピキュリアンも、人を興奮させ、熱狂させることにおいては、どちらも変わりない。しかしエピキュリアンは、極端に言えば、「私」を磨くことに目が向いて、まわりのことは視野に入らない。エンターテイナーは、何よりもまわりのことを第一に考える。まわりとともに、時代とともに“燃える”のだ。長嶋さんが“燃える男”といわれたゆえんである。「私の中の私」をいつまでもきびしく追求するイチロー。「私の中のみんな」の声に耳を傾けながらプレーを高めていった長嶋。 日本株式会社、ニッポン共同体を高温高圧の状態にして、高度経済成長の時代を引張りつづけたエンターテイナー長嶋。グローバルな地平に、個人として投げ出される時代に、いのちがけで私を磨くエピキュリアン・イチロー。この2つの類稀な個性を見ることができたのは、野球ファンにとっては、これ以上ない幸福だ。 |