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vol.409-2(2008年7月18日発行)
滝口 隆司 /毎日新聞大阪本社運動部記者
肉声なき引退発表

 日本人大リーガーの先駆者といえる野茂英雄がついに引退を表明した。90年に新日鉄堺からドラフト1位で近鉄入団。95年に米国へと渡り、メジャーでは7球団に在籍した。日米通算201勝。さらに企業スポーツの衰退によって行き場を失った選手たちに救いの手をさしのべ、大阪・堺にNOMOベースボールクラブを設立した。振り返ってみれば、野球界に残した功績は、どれだけ挙げてもきりがない。

 そんな野茂が引退を決意したというニュースは、ニューヨーク発の共同通信の配信記事で伝わってきた。また、自身のホームーページにも「現役引退 2008年7月17日 現役を引退すること表明いたしました。」との短い記事が掲載された。ふと頭をよぎったのは、サッカーの中田英寿の引退だった。

 中田の引退もHPで明らかにされた。「人生とは旅であり、旅とは人生である」のタイトルで発表された文章の中で、中田は「何か特別な出来事があったからではない。その理由もひとつではない。今言えることは、プロサッカーという旅から卒業し“新たな自分”探しの旅に出たい。そう思ったからだった」と引退の理由を綴った。それを各メディアが大きく取り上げた。結局、中田の引退会見は開かれず、彼はそのまま世界各国を回る「旅」に出た。

 今回、共同通信からは野茂をインタビューした一問一答も配信されており、HPのみで引退を発表した中田と状況はやや異なる。しかし、メディアとアスリートの関係で考えると、2人には同質のものを感じてしまう。

 野茂も中田もメディアとは一定の距離を置いていた。ともにメディア不信の気持ちを抱いていたのは確かだと思う。2人は野球とサッカーで世界への道を切り開き、大きな注目を浴びた選手である。だが、なぜ彼らがそうするに至ったのか。我々メディアはその理由を考えなければならない。

 かつて野茂は知識不足の記者がする質問に閉口していたという。自分のピッチングをしっかりと見ず、下調べもせずに紋切り型の質問を投げ掛けてくる報道陣にあきれていた、という話を読んだことがある。きっと中田も同様の感情を持っていたのではないか。

 野茂が米国へ渡ったのは95年だが、時を同じくして日本のスポーツメディアからは専門性が失われていった気がする。いろんな要因が考えられる。93年のJリーグ発足で、サッカーはプロ野球と並ぶ人気プロスポーツとなった。野茂や中田の活躍によって、海外スポーツはより身近なものとなった。テレビではスポーツ番組が増え、新聞でもスポーツ面が拡充された。時差に応じて衛星放送が午前中や深夜に海外スポーツを伝え、新聞では夕刊にもスポーツ面ができた。当然ながらスポーツ記者のカバー範囲は広がり、その結果、じっくりと一つの競技を見続ける記者が減ってきたように思える。

 野茂がプロ野球選手となった90年、私も記者になった。あの年、平和台球場でのオールスター戦で見た新人野茂のマウンド姿が忘れられない。ただ、そんな思い出とは別に、同じ時代を過ごしたスポーツ記者の立場からすれば、いろんな後悔がある。肉声なき野茂の引退発表に、考えさせられることは多い。

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