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vol.434-1(2009年1月27日発行)

岡崎 満義 /ジャーナリスト
「スポーツセクハラ」を考える

 1月26日付朝日新聞の社説に「スポーツセクハラ―女性の指導者をもっと」が載っていた。いつまでたってもあとをたたないスポーツ指導者の、とくに女子中学生など年少者に対するセクハラ事件に警鐘を鳴らすものだ。

 昨年、熊本で「部活動の女子中学生十数人にマッサージと称して服を脱がせ、胸をさわるなどの行為を繰り返した男性教師」は、「度胸をつけさせるためだった」と釈明したという。あきれてものも言えない。

 「ある体育系女子大では、約600人のうち4割が部活動で指導者から殴られた経験があった」とも伝えているが、指導者の暴力行為とセクハラは表裏一体の関係にあると見ていいだろう。

 「陸上競技で著名指導者によるセクハラ事件が相次ぎ、7年前にやっと防止ガイドラインができた。同様の倫理規定を作る競技団体は続いたが、機能していないのが実態だ」という。困ったことだ。いくらセクハラ防止のガイドラインを作ったところで、今以上に指導者にモラルを求めるのはむずかしい、と考える方が現実的かもしれない。

 少女から大人への体の変わり目にある女子中学生たちは、まだ、自分の体に対する正確な知識もないだろう。心の備えも十分ではあるまい。保健体育の時間に、キチンと男と女の体について教える。心と体は別物でないことを教える。人権は個人の体に根ざしたものであることを叩き込む。

 日本人が節度をもってふるまえる対人距離は、互いにお辞儀ができる1mの間隔だろう。欧米人は握手、抱擁という身体接触が日常的に習慣化されているから、50cm位か。日本人も今や欧米並みの生活になってきた、とはいうものの、日常的な態度物腰には、歴史的につちかわれてきたもの、おのずから節度というものがある。そこに日本人の文化も、人権の基盤もあるといっていい。クルマの走行にも適切な車間距離が必要なように、人間生活にも、適切な人間(ジンカン)距離が必要だろう。保健体育の授業は単にスポーツの技術や知識をふやすためにあるのではなく、人間の体について、ひいてはその国の文化や人権について学ぶ大切な時間だと考えてほしい。それ位の意気込みをもって、保健体育の授業をやってほしい。スポーツの指導者にきびしくモラルを要求すると同時に、女子中学生(を筆頭に女子スポーツ選手一般)に自立したアスリートとなる基礎教育をしっかりしてほしい。指導者と適切な人間距離を保って、自立したアスリートになることを目指してほしいものだ。「自立」の意味をしっかり体得してほしい。

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