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vol.460-1(2009年8月31日発行)

岡崎 満義 /ジャーナリスト
古橋さんを憶う

 “フジヤマのトビウオ”古橋広之進さんが亡くなった。20年ほど前、JOC会長を堤義明さんからバトンタッチされた頃の古橋さんに、2時間ほどインタビューしたことがある。日大の学生の夏期宿舎のある館山で会った古橋さんは元気溌剌として、若々しかった。

 敗戦直後、食うものも十分になく、ただカーンと晴れわたった青空だけがあった時代、自信も誇りも失ってしまった日本人は、古橋さんの活躍に目を見張り、拍手喝采を送ったものだ。心の栄養ドリンクのような存在であった。水泳競技のラジオ実況放送で、NHKのアナウンサーが、「古橋は水車のように腕を回し水をかいて、ラストスパートに入りました」と絶叫する声を覚えている。ライバルの橋爪選手が美しい滑らかなフォームで泳いだのに対し、古橋選手は荒々しく力にまかせて泳いだ、という印象が強い。

 水泳の古橋、ノーベル物理学賞の湯川秀樹、ボクシング・フライ級、日本人初の世界チャンピオンの白井義男、この3人は敗戦直後の日本人を力強く励ましてくれた英雄であった。赤バットの川上哲治、青バットの大下弘もあこがれの的だったが、この2人は国内の、あの3人は世界的な英雄、という位置づけだった。

 古橋さんの死を惜しむ短歌や俳句を読む。
・顔寄せて古橋さんの力泳をかすれがすれにラジオに聴きし(城陽市山仲勉)
・フルハシの快挙をラジオで聞きながらミシン踏んでる少女であった(福岡市倉掛聖子)
・ふじやまのとびうお死せり泳ぐしか遊びのなかったあの頃の夏(坂戸市山崎波浪)
・禅(たふさぎ)を緊め古橋も泳ぎしと(市川市杉森日出夫)
 以上は朝日歌壇・俳壇に載った読者投稿作品である。1952年のヘルシンキ・オリンピックに出たとき、古橋さんに全盛期の力は残っていなかった。メダルは取れなかったが、スポーツがあんなにも人に励ますものだということを、私たちに教えてくれた人は、金メダル以上のものを胸中に秘めていたことだろう。

 古橋さんは後輩のスイマーたちに向かって、よく「魚になるまで泳げ!」と言ったようだ。いかにも人一倍猛練習をした人らしい言葉だ。猛練習をすすめる言葉だが、「魚になるまで」というところに、何ともいえないしなやかな、清々しいイメージがあって、スポーツマンの言葉の中で、私の好きな言葉だ。水車のように腕を振りまわして泳ぐ古橋さんの中に、スラリと鮎のような魚がいっしょに泳いでいたのではないかと、ふと想像させるイメージなのである。

 ヤクルトのホームラン打者、故・大杉勝男選手のバッティングをコーチした飯島滋弥さんが「月に向かって打て!」と言った言葉も、細かい技術的な指導とともに、ふしぎなロマンのあるイメージを与えた言葉として記憶している。古橋さんの言葉にも、それに通じるロマンを感じるのである。スポーツの指導者の言葉には、そういうロマンがほしい。

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