NHKで昨年放送された「ハーバード白熱教室」は大きな反響を呼び、教壇に立ったハーバード大のマイケル・サンデル教授の本がベストセラーになっている。サンデル教授は政治哲学の研究者だが、展開される論理にはスポーツにも応用できる哲学がちりばめられている。出版された「講義録」(早川書房)を読みながら、そんな思いに駆られた。
サンデル教授はこんなスポーツの例を授業で取り上げる。米ゴルフツアーでの話だ。足が不自由なプロゴルファーが、プレー中のカート使用を認めるようPGA(プロゴルフ協会)に求めて却下され、裁判を起こす。そこでサンデル教授は学生たちに問い掛ける。カートを使うことは公正か? 障害を持つゴルファーの権利とは何か?
ある学生の発言はこうだ。「ゴルフというスポーツが生まれたときから歩くことは競技の一環であり、本質的な要素になっている。歩くことができなければプロとして必要な条件は満たしていない」。別の学生からはこんな声が上がる。「一番大事なのはクラブでボールを打って、ホールに入れること。コースを歩くことではなく、クラブを振ることがゴルフの本質だ」。このほかにも「PGAは全員にカートの使用を認めればいい」「車いすバスケットボールのように、PGAツアーとは別の選択もあるはずだ」など、さまざまな意見が飛び交った。
授業では、裁判所の判事が「ゴルフの本質的な目的を考えるのは法廷の役割ではない。ゴルフはほかの競技と同じく娯楽である」と述べた例が紹介される。だが、サンデル教授はここで「判事は重要な局面を見落としている」と反論する。
古代ギリシャの哲学者、アリストテレスの考えを引き合いに出し、「アリストテレス的な見方では、スポーツを単なる娯楽とはとらえない。真のスポーツ、真の運動競技は正当な評価を必要とする」と主張する。そして、スポーツの本質を突いていると思えるのは、次のような言葉だ。
「スポーツと見せ物の違い、それは、スポーツが卓越性や美徳を引き出し、それを称えて評価するというところにある。そういったスポーツの美徳が分かる人こそ、理解のある本物のファンだ」
どのスポーツも、もともとは楽しみや気晴らしを目的として発祥した。そして、卓越した技量に拍手が送られ、名誉が与えられるようになっていった。だが、現状はどうか。ビジネスにつながる過剰なショーアップが幅を利かせ、見せるスポーツとしての「娯楽化」が進み、スポーツ選手が利用される。そんな現代のスポーツ界において、見せ物との違いを論じ、スポーツの本来価値を再考することには大きな意味がある。判事のように「スポーツはしょせん娯楽だから」といって本質論に背を向けることは許されない。
コミュニタリアン(共同体主義者)の代表的論者として知られるサンデル教授は、随所に「共通善」という言葉を用いる。個々の能力や市場経済に任せた自由主義とは異なる考え方だ。人の尊厳を大切にしながらそれぞれの役割に評価と名誉を与え、人々がより善き生き方=美徳を共に追求していく。そのためには、やはり社会のつながりが必要なのだ。
今年は国会で「スポーツ基本法」の制定が議論される。しかし、これに関心のある国民がどれだけいるだろうか。スポーツを行う権利とは何か。国民の税金をどんな分野に分配していくのか。公正な機会をどのように維持していくべきか。一部の国会議員や有識者だけでなく、スポーツ界全体が新しい時代の「美徳」や「共通善」を論じる時だ。
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