スポーツ記者になりたての頃、よく先輩から「昔はプロレスも運動面に載せていたんだ」という話を聞かされた。では、どんな経緯で一般紙の運動面からプロレス記事が消えていったのか。八百長問題をきっかけに「大相撲はスポーツなのか」という声が改めて聞かれるようになった今、プロレス報道の歴史を知りたくなって古い記事を当たってみた。
過去の毎日新聞縮刷版を見ると、プロレス記事が運動面に登場するのは1954(昭和29)年からになる。日本プロレス協会が設立され、同年2月には力道山が、柔道の元全日本覇者、木村政彦とタッグを組んでシャープ兄弟と対戦する。その試合は運動面のトップ記事として扱われていた。
そのような黎明期から「プロレスは八百長か真剣勝負か、ショーか」の議論があった。この年の暮れに蔵前国技館で行われた力道山と木村による初の「日本選手権試合」では、まさに八百長が話題の的になった。当時の記事によれば、対戦前に木村は「力道のレスは八百長で本当のレスではない。どちらが真の日本一か近く力道に挑戦し黒白きめる」と挑発している。しかし、この試合は力道山が圧倒的に攻めて木村をわずか15分余りでマットに沈める。そして試合後、こう言う。「リングにのぼってから二度も木村は引分で行こうといった。自分から挑戦しておきながらこんなことをいうのはとんでもないことだと思った」。一方、木村は「力道山はぼくが引分けようといったという話だが、そのようなことを彼がいったとしたら彼の心理状態を疑いたい」と即座に否定し、「力道はクツのカカト、ツマ先、コブシ、ヒザなどを使って打って反則は四、五回あった」と相手を非難した。
プロレス解説者も務めた伊集院浩さんが数日後に論評記事を書いていた。倒れた木村を力道山が踏んだり蹴ったりする感情的な試合に対し、「こんな刺激の強い試合を見せられたらたまらない」とつづり、「私が失望したのは勝負はともかくとしてこの二人が試合後に語った相手をヒボウする言辞である」と批判している。相手への尊重がかけらも見られない"決闘"にスポーツらしさはなかったということだ。
プロレスはその後、次第にショーアップの色合いを濃くしていった。一時はプロレス興行の後援にも力を入れていた毎日新聞だが、プロレス記事の扱いは徐々に小さくなっていき、縮刷版を繰るところ、1965年初めで姿を消している。国民的スターだった力道山が赤坂のナイトクラブで暴力団に刺されて亡くなったのは63年末。翌64年は東京五輪の記事で運動面は埋め尽くされていく。掲載されなくなった理由には諸説あるそうだが、このような時代背景の中で、一般紙のスポーツ記事として価値が見いだされなくなったのかも知れない。
大相撲はスポーツか神事か、伝統芸能か、という議論が再びクローズアップされている。見方はさまざまだ。もちろん、大相撲とプロレスの歴史も全く異なる。だが、スポーツに対するファンの目には必ず共通するものがある。ファンをあざむく嘘や汚い行為をいつまでも通せるわけがない。今回の八百長問題を通じ、相撲界だけでなく、スポーツ界全体がスポーツの本質や価値を問い直す機会にしたい。
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