昨年8月に施行されたスポーツ基本法に従って策定する「スポーツ基本計画」を議論している中央教育審議会の特別委員会が、計画に盛り込むメダル目標を決めたという。五輪では金メダル獲得数の順位争いで「夏季大会で5位以内、冬季大会は10位以内」。そして、驚くのは、パラリンピックにまで数値目標を定めたことだ。
その目標とは「前回大会以上」で、北京パラリンピックなら17位、バンクーバーパラリンピックなら8位。これを上回る成績を国家として求めるというわけだ。
これまでのスポーツ振興法とは異なり、新法であるスポーツ基本法には障害者スポーツの振興が含まれた。だから、パラリンピックに出るようなトップアスリートには、税金を投入するに見合う成果を求めているのかも知れない。そうなれば、メダルを期待できない競技は強化費補助を削減されたり、受けられなかったりするだろう。五輪競技ではすでに国家補助金を投入するスポーツの「選別」が、「ターゲット競技」という名称の下に行われている。そういった成果主義が、障害者スポーツにも適用されるのだ。
かつて、パラリンピックの新聞での扱いを社内で議論したことがある。障害を乗り越えて頑張る人の生きざまを描くのなら、社会面に掲載するのが妥当だろうという意見が大勢だった。しかし、実際に障害者スポーツを取材した者からは「関係者は運動面掲載を望んでいる。健常者のスポーツと同様に扱ってほしいという話をよく聞く」という声も上がった。
そんな時、「では、五輪と同じように、パラリンピックでメダルを獲れなかったら原因分析や責任追及を運動面で書くのか。その必要はあるか」という意見が出たものだ。最近は各紙ともパラリンピックを運動面で扱い、障害者スポーツの技術論にも触れるようになった。しかし、メダル目標がクローズアップされれば、今後は不振だった時の原因や責任を問う記事も書かなければならないのだろうか。
話は変わるが、オーストリア・インスブルックで開かれていた14〜18歳の若者の国際大会、第1回冬季ユース五輪がこのほど閉幕した。国際オリンピック委員会(IOC)のロゲ会長が提唱して始まった大会だが、単なる五輪の“ミニチュア版”ではなく、勝敗よりもスポーツを通じた若者の交流や教育を重んじている。その一環としてメダル争いに大きな価値は置かず、2年前の第1回夏季大会(シンガポール)に続き、今回も国・地域別のメダル数や順位は発表されなかった。カーリングなどでは国籍の異なる選手がペアを組んで試合をするケースも見られ、国家主義的要素を否定してみせた。
こうしたIOCの方向性と比較すると、メダル目標を定め、世界における地位を重視する日本という国は、どこかスポーツの本質を見失っている気がしてならない。アスリート自身がメダルを目指して日々努力を重ね、試合に挑むことは五輪もパラリンピックも同じだ。ただし、目標は自分が心の中で決めることであり、国が決めることではない。そこを勘違いすると、スポーツ界は息苦しいものになってしまう。
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