スポーツ選手の国籍変更が相次いで話題になっている。マラソンでカンボジアの五輪代表に選ばれたタレントの猫ひろし。フィギュアスケートで日本代表として高橋成美とペアを組み、世界選手権で銅メダルを獲得したカナダ国籍のマービン・トラン。サッカーのドイツ1部リーグ、シュツットガルトでプレーし、ドイツ人の母親を持つ酒井高徳には国籍を変えてドイツ代表に、と期待する地元報道が出ているという。
それぞれに批判的な見方や歓迎する声がある。だが、これらの問題を個別に論じるのではなく、もう少し視野を広げて考えてみたい。スポーツ選手の国籍変更には社会構造や時代の流れが色濃く影響しているからだ。
選手が世界的に流動化し始めた背景には、1990年代以降の状況変化がある。@東西冷戦の終結A欧州経済の統合B衛星放送の発展――などだ。冷戦が終わり、東側諸国の相次ぐ崩壊によってステートアマと呼ばれた東側のトップ選手やコーチが西側に流れた。欧州経済の統合ではEU内の労働が自由化され、特にサッカーを中心に数々のスポーツで欧州内の移籍も自由になった。その結果、各国リーグは次々と多国籍化していった。そこに結びついたのが衛星放送ビジネスだ。海外のスポーツが衛星放送によって身近にテレビ観戦できるようになり、有料放送で潤ったテレビマネーがスポーツ界に流れた。その財源で各クラブは国境を越えて選手を売り買いするようになった。
これらの現象は欧州サッカーだけでなく、米国のプロスポーツにも波及し、日本のサッカー選手や野球選手も外国でプレーすることがステータスとなった。21世紀、特にビジネスを通じてスポーツ界の「グローバル化」は大きく進展したといっていい。
ところが、グローバル化の反動として「国籍主義」「国家主義」の考えが以前にも増して前面に出てきたようにも見える。冷戦時代ではない今も、五輪では激しく国別のメダル争いが繰り広げられ、かつての西側諸国は国策としてスポーツの強化を進めている。日本をはじめ、英国、カナダ、オーストラリアなどではメダル獲得が有望視されるアスリートを育成する仕組みに国費が投じられるようになった。ところが、実際には国策強化の枠を抜け出し、外国を拠点に活動するアスリートが後を絶たない。サッカーや野球だけではない。北島康介、室伏広治、為末大ら個人競技の選手も……。これは世界的なトップアスリートの傾向だ。
五輪憲章は「五輪は選手間の競争であり、国家間の競争ではない」と掲げつつ、国籍主義を重視している。ある国を代表した選手が別の国の代表となる場合は、前の国で出た大会から3年以上が経過していなければならない、というような規定だ。しかし、その矛盾を修正しきれないまま、アスリートの流動化はますます進む。
一方、スポーツを見る側は何を望むだろうか。サッカーファンはスペイン代表とFCバルセロナのどちらを見たいか。米国の野球ファンはWBCの米国代表とメジャーリーグのどちらに興味を感じるか。そして、五輪好きな日本人は何に熱狂するか……。
農作物に似て、自由市場だけでは「地域的普及」に偏りが出る。しかし、保護ばかりでは国際競争力が育たない。「国籍」という枠で縛るのか、それとも解き放つのか。スポーツ界には、そのバランスを取る工夫が求められている。
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