リオデジャネイロオリンピックが終わったところで、この17日間に感じたことをいくつか書いておこう。
まずはこのことに触れないわけにはいかない。今回もそうだったように、いまのオリンピックはすべてに過剰だとあらためて思わずにはいられなかった。もちろん拡大一途の大会規模や巨額経費、ビジネス面での際限ない膨張傾向が大本にあるのだが、競技そのものの面でもそれを感じることが多い。たとえば112年ぶりに復活したゴルフ。32回で書いたように、人気や注目を集められそうなものは何でも取り込んでしまおうというIOCの過剰な拡大方針にそもそも無理があるのだ。案の定、トップ選手の欠場が目立ったリオのゴルフは予想ほど注目されなかったし、盛り上がりもしなかったように思う。
同じく久々復活組のラグビーは人数や競技時間の制約で7人制として登場したが、こちらにも素直にうなずけないところがあった。7人制ラグビー、ことに女子は世界でどこまで普及しているのか。どこでも盛んに行われているといえるのか。少ない出場チームの中でも力量差が目立ったように、オリンピック競技とするにはまず普及発展が必要なように見えた。魅力あるスポーツだとは思うが、選手数抑制が叫ばれる中、こうした形で次々に競技・種目を増やしていくやり方には疑問が残る。「過剰な水増し」の観が拭えないのだ。
2020年東京ではさらに新競技が入る。テレビ映りがいいもの、若者受けのしそうなもの、プロの世界が確立している人気スポーツなどを軒並み取り込もうとしているIOCだが、ゴルフの例にもあるように、それが大会の盛り上がりにつながるかといえば、必ずしもそうとは言えない。むしろ、オリンピックならではの味わいを薄める結果にもなるのではないか。「オリンピックはすべての面で最高であるべき」の考え方のもと、何にでも手を伸ばしていく傾向は、やはり過剰と言わねばならない。
その「過剰」のひとつの象徴である開会式。35回でも触れたが、今回のリオは近年のものと比べればやや控えめだった。財政的事情でそうせざるを得なかったとの事情もあるが、いずれにしろ、スポーツ大会には無用の豪華さや国威発揚がさほどみられなかったのはプラスといえる。この方向性をぜひ定着させたい。そのためには次回、すなわち東京が大事だ。仮設の施設などを活用して経費節減をはかったこととも併せて、「カネのかからない大会」を進めていけば、それは曲がり角にあるオリンピックを正しく軌道修正する改革となる。
過剰といえば、メディアも相変わらずそうだった。テレビのお祭り騒ぎをすべて否定するつもりはないが、もっと競技そのものに集中した番組づくりができないものか。日本選手中心に報ずるのは当然だが、せっかくのオリンピックなら、もっと幅広い中継にしてほしいものだ。オリンピックのような機会でしか見られない競技をもっと見たいという声も少なくない。メディアはオリンピックの発展に重要な責務を負っているのである。ただ過剰に騒ぐだけではその役割は果たせない。
もうひとつ、人気競技や人気選手ばかり取り上げる流れも変わらなかった。そうなると、本当に価値ある結果を残した選手のことがあまり伝わらないという場合もある。たとえば、陸上の4×100メートルリレーの銀メダルは世紀の快挙のように大々的に報じられたが、そもそも陸上は個人競技であり、リレーはすべて終わった後のお祭りのようなものだ。もちろん銀メダルは立派だが、それにしても少々持ち上げ過ぎの観がある。それなら、カヌーの銅やレスリング・グレコローマンの銀のように、世界の厚い壁を打ち破ってかつてない道を開いた選手たちのことをもっと大きく伝えてもらいたかった。ムードに流されず、本当に伝えるべきことを見きわめていく目と姿勢とを、各メディアには強く求めたい。
最後に触れておこう。閉会式の、フラッグ・ハンドオーバーセレモニーに続くTOKYO2020のアピールのことだ。
海外では高く評価されたといわれている。確かによくまとまっていたし、安倍首相の登場も悪くなかった。ただ、結局はアニメとゲーム、そしてハイテクという従来からの日本のイメージをそのままなぞっただけというようにも思える。示すべき日本の文化はそれしかなかったのか。
何より物足りなかったのは、東京でどんなオリンピックを開こうとしているのかという提示が欠けていたことだ。短い時間とはいえ、本来これは、オリンピックに対する開催都市の基本的な考え方を示す場でもあると思う。それについて伝わってくるものは何もなかった。曲がり角にあるオリンピックをどう考えるか、そこにどんな哲学や主張を盛り込むのか。そうしたものを持たないまま、4年後へと突き進んでいくことを暗示しているような8分間だった。
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