朝日新聞(2月13日付朝刊)の読者投稿歌壇に、大相撲関連の短歌が2首のっていた。 ・ モンゴルとスラブの強き大相撲野見(のみ)も蹶速(けはや)も苦笑しおらん(相模原市・松並善光)
・ 朝青龍のすばやき技に倒されし日本人みな人のよき顔(千葉市・三塩邦彦) モンゴルをはじめとする外国勢に席捲されている大相撲を見て、日本人力士はふがいないと、切歯扼腕している相撲ファンの顔が見えるようだ。高見山以来のハワイ勢、南海竜などのトンガ勢の時代は去ったが、かわって朝青龍などのモンゴル勢、黒海、琴欧州などのスラブ・ロシア・ヨーロッパ勢が台頭してきて、その強さばかりが目立ち、日本人力士のカゲが薄くなった。世界の“ハングリー精神”たちが集まってきた。
日本勢も稀勢の里、琴奘菊などの若手がぼつぼつ出てきたが、まだまだ安心できるほどではない。 たとえば、朝青龍の力が抜きん出ているとはいえ、日本人力士の負けっぷりがあまりにも悪い。琴光喜がその典型例だ。差し手争いのあと四つに組んだかと思うと、あっという間に目よりも高く持ち上げられ、その場で裏返しになるほど叩きつけられてしまう。そんなシーンを2、3度見た。まさに、ちぎって投げられる感じである。
これがトラウマになったかのように、以後、琴光喜は朝青龍と対戦すると、ただただしがみつき、仏壇返し風の大技をいかに防ぐかだけで精一杯、積極的に勝とうとする意欲が、身体にみなぎってこないのである。歯痒いことおびただしい。おどおどしている力士はいただけない。負けるにしても堂々と負けっぷりよく負けてもらいたい、とついつい思ってしまう。
不滅の69連勝の名横綱・双葉山を倒すために、出羽海部屋は一門の総力をあげて研究、猛稽古を積んだ、といわれるが、朝青龍対策にはそれ位の努力が必要なのではないか。
私が今もっとも注目しているのは、やはりモンゴル出身の白鵬である。(初戦は垣添に負けてしまったが)20歳という若さと柔らかい相撲ぶりもさることながら、肩から胸、腹、腰にいたる身体のなだらかな線が、まるで仏像のようなやわらかさを見せていることだ。もう少し土俵年齢が積み重なってくれば、さらに美しい線を見せる身体になるのではないか。あの双葉山の全盛期のように均整のとれた(といっても、私は写真でしか見たことはないのだが)美しく、力強い力士になるのではないか、と今からワクワクする気持ちで見ている。
それにしても、強くなる外国人力士はどうしてこんなに早く日本語をマスターしてしまうのだろうか。言葉は脳だけの問題ではない、身体の動き、鍛錬と深い関係があるのだろうか。韓国生まれの詩人、故・姜晶中さんが大学を卒業してから日本に来て、日本語をマスターしようと、毎朝、裸足で近くの高尾山を歩いた、と話してくれたことを思い出したりする。
大相撲に外国人力士が増えることを、大相撲の危機だ、という人もある。私はそうは思わない。意欲のある若者が世界中から集まってくれることは、まさに相撲が世界に通用する文化であることを逆に証明するものだと思う。
心配すべきは少子化の問題、そして、昔は全国どこの小学校、神社や寺にもあった土俵が殆どなくなってしまったことだ。相撲協会は全国の小学校に土俵を寄付し、インストラクターとして、元力士を派遣するなど、少子化対策を早く実行してほしい。 |