国際サッカー連盟(FIFA)は、今年6月7日、ベルリン・オリンピックスタディアムに予定していたワールドカップ「開会式」を中止する、と発表した(1月13日)。 その日は大会開幕2日前、この会場での第1戦(6月13日)までには、充分に準備の時間がとれるとされていたが、どうやら6日間で、ピッチを試合のできる状態に戻すことが難しいと判断したようだ。当然の措置だろう。 “地球が広かった時代”はともかく、今日では規模の大小に拘らず、スポーツ大会で「開会式」は、必ず行われなければならぬものではない。 単一競技の国際大会では、選手たちに、参列の意識が薄い。前景気を煽り、開幕を祝う地元のためのイベントとみている。 ワールドカップは、もともと、各国選手が並んで入ってくるような感覚を持ち合わせていない。 「甲子園」を代表格とする日本の開会式観とは、異なるのだ。 ベルリンの「開会式」は、これまでにない大掛かりなショウになる、と耳にしていた。 当然、ピッチは、アーティスト、ミュージシャンたちのステージに仕立てられ、芝生の状況が心配されていた。 オリンピックの「開会式」は、大会ごとに大型アトラクションが主体となり、主役不明の長時間イベントになる。テレビで見ていても“疲れる”。 儀式好きの日本では、4年前のワールドカップで、開催都市が各会場の初試合日に土地柄を彩るイベントをと熱望したが、極めて小さな行事ですまされた。ピッチの状態優先、「キックオフ」に優るセレモニーなし、というわけである。正しい。 FIFAの判断に、「開会式」をショウと割り切って楽しみにしていた人たちは、ブーイングだと言う。 スポーツ(サッカー)と異文化のコラボレーションは、確かに現代的なテーマだが、ピッチを荒らしてまで行うことはない。 ベルリンでは、市内に別会場を求めて「前夜祭」の計画がねられているそうだが、ハナからそのアイデアのほうがよかった。 話は飛ぶが、日本の「開会式」も、旧態を引きずるばかりで、改めて目的を問いなおす大会が少なくなさそうだ―。 |