マスコミ講座受講生の「2002年ワールドカップ・リポート」全9篇を読んだ。 誰もが、この大会のどこかに「物足りなさ」を感じているようだ。私も同感である。 それが、何を理由としているものなのか、各氏は懸命に探し出そうとしている。 「ワールドカップ」というスーパーネームに、味わう前から酔いしれすぎてしまったのではないか。角田麻子さんの2篇が、テーマを変えながら、そのあたりをズバリと突いている。素敵な筆の運びだ。 我々は、いつも、ビッグイベントのあと、それをつとめて「美しい記憶」にとどめようといきごむ。
だが、時間が経つにつれ、美しさが薄れ、記憶が遠のく。 いつまでたっても、日本のスポーツは、足が地につかないのである。MANGOさんは、その責任にマスコミをあげる。正しい。 安藤崇さんの"観戦記"も「美しい記憶」を振り払うようで、面白い。私は、全試合を横浜の国際メディアセンターに居てテレビ観戦で過ごしたが同氏のいう「アタリ」は少ない印象を受けた。 日本代表についての評論が少なかった。私もその気になれない。 とりあえずベスト16、それ以外に何があったのだ。 2002年の大会での日本は、何をしたチームだったのか。長谷川創さんが、嫌みなく刺してくれた。 細堀泰弘さんも、ワールドカップの代表は、単に星勘定だけを問うものではないと迫り、ほかの1篇ではピッチを離れての想いをまとめた。 武山智史さんは、これからの日本サッカーのカギを、Jリーグに預けた。その成否は、これまた、マスコミの"姿勢"による。 肩に力が入ったのは宮野真吾さんの1篇だ。ソルトレークシティにしても、今大会にしても"政治的誤審"はスポーツをダメにする。通常の(?)誤審とは根が違うのである。 どのリポートも、思いのままが描かれ、ワールドカップの持つ多彩さを、改めてうかがえた。
「楽しかった。でもね…」の「でもね」のあとが、ジャーナリスティックな視点というものである。 現実を見つめ、過ぎたできごとを顧みなければ将来に活きない。
今回のマスコミは「日韓共催」の意義にとらわれ過ぎもした。「美しい記憶」に大会期間中から早々と溺れこんだ。 これからも、スタディアムで、アリーナで、コートで楽しみを味わったあと、何かを書きとどめてみて下さい―。 〔杉山 茂〕
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