1月1日午前6時53分、辻堂海岸で初日の出を拝む。家から海岸まで徒歩で往復50分。4年ぶりに大きな初日が、江ノ島の左横から黄金の矢を放って昇ってくるのを見た。西の富士山は7合目あたりから上が雲におおわれ、冠雪がピンク色に染まる雄姿は見えなかった。 2日。茅ヶ崎ゴルフクラブ新年杯Bクラスに出場。4番ホールまでは3パー、1ボギーと快調だったが、5番ミドルホールで8叩いて万事休す。風もなく、暖かく絶好のゴルフ日和だった。たくさん叩いたが、台湾では「多打身体好、少打精神好」というそうだから、これはこれでよしとしよう。 3日。ゴルフ場の近くまで、20分ほど歩いて箱根駅伝復路の応援に出かける。40年間、ほぼ欠かさず応援してきた。昔の選手は、山椒は小粒でもピリリと辛い、という感じの、小柄なランナーが多かった。今はみんな足が長くスラリとして、まさにカモシカのようにしなやかに走り抜けていく。 箱根駅伝というと、瀬古選手を育てた早大の中村清監督のことが思い出される。年末、本番目前の早大チームが、明治神宮外苑近くの中村監督の自宅で合宿中だった。練習を終えた若い選手たちが、あまり広くない応接間にギュウ詰めになっている。中村監督は道元「正法眼蔵」を手にして、「行持」の巻16を説いていた。空はどこまで昇っても天井はない、というような哲学を話して聞かせていた。「まあ、こんな話をしても分からんだろう。それでもいい。将来、いつか私の墓の前を通ることがあったら、そう言えば中村というヘンなじいさんが、道元の話をしてくれたなあ、とちょっと思い出してくれるだけでもいいよ」と中村監督は笑った。きびしい練習の中村監督も、このときばかりは、好々爺のいい笑顔だった。20数年も前のことである。 5日。アクラブ藤沢で初泳ぎ。いつものように1000mクロールで泳ぎ、300m水中ウォーキングで約50分。100mを3分という超スローペースだから、とても泳ぐなどと言えたものではないが、水泳のおかげで、腰痛、50肩などと無縁で過ごせたように思う。ここで泳ぎはじめて、今年で26年になる。 スポーツ事始め、というとき、必ず三島由紀夫「実感的スポーツ論」を思い出す。昭和39年、東京オリンピックの年に書かれた素晴らしいエッセイである。 幼少の頃、虚弱児童だった三島は、体育スポーツにまるで縁がなかったが、30歳にして突然スポーツに目覚めた。週刊誌で早大ボディビル部のグラビアを見て、誰でもこんな体になれる、とのコメントを読み、一念発起した。早大のコーチを家庭教師としてのボディビルから始まって、やがてボクシング、剣道へと進んでいった。 その経験を通して、三島は2つの提案をしている。1つは「対抗試合にも一切参加せず、そのかわり学生全部の体位向上に、個々人の能力に応じて十分注意を払う」体育専門の高等学校がほしい。2つは「私は幸いに職業柄、多くの人の厚意を受けることができ、多くの門がひらかれたが、一般の社会人が、たとえば私のように三十歳になってスポーツをはじめようと決意しても、その場所がなく、その機会がない」現状を大改革せよ、ということだ。草の根スポーツへの情熱が溢れている。 そして、そのエッセイの最後は「運動のあとのシャワーの味には、人生で一等必要なものが含まれている。どんな権力を握っても、どんな放蕩を重ねても、このシャワーの味を知らない人は、人間の生きるよろこびを本当に知ったとはいえないであろう」と力強く結ばれている。 |