5月30日、ヤンキース対レッドソックス戦を衛星中継で見た。松井秀喜選手がさっぱり打てない。対レッドソックス3連戦は結局、ノーヒットに終わった。不発弾男となってしまった。「これで202打席、45試合ホームランがありません」と、アナウンサーが残念そうに喋っている。解説の小早川毅彦さんが「松井の状態は悪くない。バットも振れている。結果的にヒットにならないだけだが、しかし、簡単に野手にさばかれてしまう打球しか飛ばないのも事実だ。微妙なところの何かを、今けんめいに探しているのだろう」と、まさに微妙な言い回しだ。
この日、4番をはずれて、6番指名打者で登場したのは、気分転換させようという、トーリ監督の気持ちからだろう。 打席に入る松井の顔を見ると、心なしか頬のあたりの肉が削げ落ちて、顎の線が鋭くなっている。気落ちしているからか、その鋭さが精悍な感じに見えない。凡打してベンチへ帰ってくる足取りがいかにも重い。弾まないどころか、地面に粘りつくように重い。
花粉症に悩んで、部屋に除湿器を入れたりしている、というから、体調も万全ではないのだろう。イチローに期待するものと、松井に期待するものはちがう。開幕ダッシュで見せたホームラン量産に、ひょっとして今年はホームラン王も、という期待をふくらませかけていたから、夢がみるみるしぼんでくる感じだ。
小林秀雄『考えるヒント』の中に、「スランプ」という一章がある。国鉄時代の豊田泰光選手とスランプについて話したことをもとに書かれた文章である。野球論ではなく、最後は文学論、言語論になっているが、その中にこんな一節がある。
「その道の上手にならなければ、スランプの真意は解らない。下手なうちなら、未だ上手になる道はいくらでもある。上手になる工夫をすれば済む事で、話は楽だ。工夫の極まるところ、スランプという得態の知れない病気が現れるとは妙な事である。
どうも困ったものだと豊田君は述懐する。周りからいろいろと批判されるが、当人には、皆、わかり切った事、言われなくても、知っているし、やってもいる。だが、どういうわけだか当たらない。つまり、どうするんだ、と訊ねたら、よく食って、よく眠って、ただ、待っているんだと答えた。ただ、待っている、なるほどな、と私は相槌を打ったが、これは人ごとではあるまい、とひそかに思った」
松井はよく食って、よく眠っているのだろうか。もっとも、専門家の誰も松井がスランプだとは言っていない。スランプというほど、深刻な状態ではない、ということだろうか。打点も多く、トーリ監督の信頼は厚い。
それでも、肩を落とし、沈んだ表情の松井を見るのはことのほか辛い。何とかならないものか。と考えて、作家の伊集院静さんを思い出した。伊集院さんは松井の大ファンであり、最高の理解者である。打撃の技術論ではなく、スランプ(めいた状況)を抱えた男の心と体を、つまりはスランプに直面した打撃人の人間論を、それも温かい人間論を読みたい。打てない松井のすごさ、文学としての松井秀喜論のようなものを、ぜひ書いてほしい。 |