カイロで開かれた柔道の世界選手権をテレビで見た。昨年のアテネ五輪で日本勢が大活躍したので、今回も楽しみだった。選手たちは十分に期待に答えてくれて、深夜まで面白く見ることができた。金、銀、銅、メダルの色は違っても、選手たちの試合ぶりはすばらしかった。 個人戦に登場した男女16人の選手の中で、1度も勝つことなく試合場から姿を消した選手が3人いた。男子73キロ級の高松正裕、女子57キロ級の宮本樹理、そして女子70キロ級の上野雅恵である。高松はただ不甲斐なく、初出場の宮本はまだ借りてきたネコ。しかし、上野の連敗は信じられない。 上野は1年前のアテネ五輪では金メダルを取っているのだから、大番狂わせといってもいい。大会前にはもっとも金メダルに近い、といわれていた。一体、どうしたのだろう。 もともとスロースターター、闘志が殆ど顔に出ない。喜怒哀楽が顔色につながらない。静かな闘志を内に秘めて、というタイプらしい。そういえば、アテネ五輪で勝ち進んで優勝したときも、他の選手のように喜びを爆発させるという姿は見なかったような気がする。おとなしく、万事ひかえ目、淡々と"仕事"をこなしていく。 しかしスポーツ、それも1対1の格闘技である。よほど体力に恵まれて、強い精神力の持ち主でなければ、世界一の座につくことなどありえない。人一倍の体力、運動神経をもち、努力家で、芯の強い女性にちがいない。だからこそ、アテネ五輪の金メダルという栄冠を勝ちとることができた。 それが今回、殆ど抵抗らしい抵抗も見せず、あっさり敗れたのだ。初戦で「指導」を取られ、敗者復活戦も2回の「指導」を取られている。余程、体調が悪かったのだろうか。 試合場に入場したときから、オヤッと思うような覇気のない、無表情に近い顔つきだった。その無表情は試合中も、敗れたあとも変わらなかった。それが私には、何ともふしぎなことに思えた。淡々と結果を受け入れ、あっさりと試合場をあとにした。 9月10日付朝日新聞は「上野不覚、V3逃す」と大きな見出しをつけ「アテネ五輪後、一度は第一線を退く決心をした。63キロ級の妹・順恵が頑張る姿を見て再び戻ってきたが、この日は『気迫もなく、普通にやっちゃった』。日蔭監督は『五輪も勝ち、取るものは取って納得してしまったのだろう。執念がなかった』と残念がった。『負けてもあまり悔しくなかった』と上野。柔道を続けるかどうかについては『大会が終ったら考えようと思う』と静かに語った」と報じていた。 この記事を読んでも、肝心のことは分からない。なぜ「気迫もなく、普通にやっちゃった」のか。なぜ「負けてもあまり悔しくなかった」のか。そこが知りたい。 アテネ五輪で金メダルだったから、次の世界選手権も王者の貫禄を示さなければならない、というプレッシャーがあったのか。しかし表情からは、とてもそうは思えなかった。 頂点をきわめたのだから、これからは柔道を楽しみながら出場してみようと思ったのか。その気持ちも表情や仕草からは読みとれなかった。試合前も試合後も、心ここにあらず、ボーッと霞のかかったような、迷路をあてもなく歩いているような、勝ったときの喜びも負けたときの悲しみも、体の中からいつのまにか気化して消えてしまった体が、力なく動いているように見えた。あるいはロッククライマーが、オーバーハング気味の垂直の岩壁に宙吊りになって、にっちもさっちもいかないような感じで、きびしい勝負とスポーツの楽しみの間に宙吊りになってしまった状態で、世界選手権にのぞんだのか。心の奥深いところで、五輪で柔道はやめておけばよかった、との思いが尾をひいたのか。負けたからといって、責めているわけではない。世界の頂点に立ったあとの一流アスリートの心の変化を、何とか覗いてみたいと思う。上野雅恵という、ふしぎなアスリートに出会ったとまどいが続いている。 |