オリックスの仰木彬監督が12月15日、亡くなった。パ・リーグ一筋、近鉄、オリックスで14年間監督をつとめ、勝数は歴代12位の988勝815敗、日本一にも一度輝いている。名監督の1人に数えられるだろう。 近鉄監督の2年目だったか、NHK衛星放送で、近鉄の春のキャンプを、スタンドに来てもらって一緒に見ながら、いろいろ解説してもらったことがある。喋り方、態度もの腰、実におだやかで、ゆったりとした人柄が印象に残っている。春風駘蕩の人、といいたくなるような雰囲気だった。 春風駘蕩だけで監督がつとまるわけはないから、グラウンドではきびしい指導があったにちがいない。それでも、野茂投手のトルネード投法や、イチローの振り子打法を無理に矯正することなく、個性をのびのび表現させたあたりは、やっぱり春風駘蕩の自然体の人、という感じが強いのだ。 「何と申しましょうか」の名調子でNHKの志村正順アナウンサーと、息の合った野球解説をつづけた小西得郎さんに、「老いらくの恋も忘れて球遊び」という俳句があるが、晩年の仰木さんには、そんな境地もあったのではないか、と思う。そうでなければ、バファローズとブルーウェーブの寄合い所帯を、プロ球界の危機感、使命感だけで監督を引き受けることはありえない、と思う。そうでなければ、悲しすぎる。 仰木さんの最大の功績は、何といっても鈴木一朗を「イチロー」と名付けたことだ。太郎、花子と並んで、日本でもっともポピュラーな一朗を、イチローと片仮名表記することで、世界を一変させたのである。国産品が国際品になったようなものだ。 戦後のプロ野球の歴史は、昭和30年代までの「赤バット(川上)・青バット(大下)」、高度成長時代の「ON」、そしてバブル以降の「イチロー」で語ることができる。それぞれの時代を象徴する名付けである。 鈴木一朗がそなえた抜群の走攻守の能力、とくに打撃の超絶技巧を見抜いた仰木さんは、鈴木一朗というあまりにも平凡な名前を、何とか世間にアピールする名前に変えたいと思ったにちがいない。 鈴木という姓を、思い切って登録名から削ってしまう。欧米人のように、親しみを込めてじかに名(ファーストネーム)で呼ぶ。一朗という平凡な名前をさらにシンプルに、イチローにすることで、平凡な感じが消えて、新鮮な親しみが増した。日本に名前だけの人はほかにいるか。いる。天皇家である! まさか仰木さんは天皇家を意識したわけではないだろうが、結果的にはそうなった。まさに、日本を象徴する名前になった。(サブローには象徴性はない) 何といっても日本は、言霊(ことだま)の幸わう国である。新しい「イチロー」という名前が、鈴木一朗をもののみごとに脱皮させたのである。日本から世界へ!(大リーグの球場の場内放送では「イチロー・スズーキ」とアナウンスするのは気にくわない) ファイティング原田、アニマル浜口・・・など、名字の上に新しい片仮名名前をプラスするやり方はこれまでもあったが、名字を削り落とすというやり方は初めてではないか。まことに斬新な手法だった。 もちろん、イチローに特別な技術がなければ、イチローという名前が輝くことはなかったであろう。その技術を見抜いて、仰木さんは「イチロー」と名付けた。そして、その「イチロー」は、「イチロー」を強く自覚することで、さらに技術を伸ばしたにちがいない。 「仰木マジック」といわれる「マジック」の核に、仰木流の言葉の力があったのではないか、というのが、私の想像なのである。 |