高校選手権が終わると、いつもなら話題の花がしぼんでしまうサッカー界だが、今年は違う。セ・パ両リーグの1人舞台を許さぬほどのニュース量で、この時期、どのようにマスコミの関心を引き込むか、長年の課題の1つが“解決”したようにも思える。 そのなかで、気になるのは、2月9日(埼玉スタジアム2002)の北朝鮮戦を前にしたさまざまな“情報戦”だ。 サッカーの国際シーンではよくあること、とすれば、極東のスポーツ・マスコミも、本場なみになった、と苦笑ももれるが、政治色をからめるような流れは、けして好ましいものではあるまい。 練習の非公開や、外部からの目を封じるための工作など、サッカーに限らず、ボールゲームでは珍しくない。 個人スポーツでも、トップゾーンともなれば、第三者を装って、ライバルの練習を偵察に行く。一方、相手の目を乱すための仕掛けもある。伝統的な駅伝では各チームのオーダーを探るため、あの手この手が使われる。 以前の話だが、大学アメリカンフットボールで、警戒していた側と、探りに来た側とで、こぜりあいになったニュースがあった。 微妙なフォーメーションプレーは、事前に手の内が分かってしまえば、威力は減退する。ましてやワールドカップ予選、各国が神経質なほど、用心を重ねるのは、当然なのだ。 それを、挑発的に伝えるのは、今回の場合、一種の“悪のり”のような気さえする。 サッカーのタイトルマッチは民族の戦いなのだ、といった昂(たかぶ)った声も聞こえそうだが、北朝鮮チーム側の取材規制などを、異常な行動とは云えない。 スポーツ報道は、面白おかしく伝えられるものでは、けしてない。 それを受け入れているようでは、日本の“スポーツ度”は低いことになる。 ニュース量のうえでも、ベースボールと肩を並べるようになったサッカー。ファンの求めるレベルが高まればスポーツ報道をリードする期待がかかる―。 |