社会人野球界で初のドーピング違反が報告された(2月22日)。 日本人選手のドーピング違反はこのところ相次いで明らかにされている。
国際的には、今や違反なしで済む大会はないほどで、あまりいい表現ではないが、日本人選手だけが例外のままとは思えなかった。 国内スポーツ界は、薬物使用について厳しい管理が行われており、コーチングスタッフなどに話を聞くと、いつも自信に溢れていた。
それが1、2年前から、急激に深刻さが増してきた。多くは“競技力向上”に追われて手を出したのではなく、カゼなどを治すための不注意から生じたケースだが、これだけ内外の報道などでドーピング問題が伝えられ、警鐘が鳴らされながら、トップゾーンでの「薬への姿勢」が甘いのは、いつか、大きな舞台で違反騒ぎが起きる不安を抱かせる。
ドーピング問題の啓蒙は日本オリンピック委員会(JOC)、日本体育協会などの懸命な行動で浸透の度合いは、確実に深まっている。特に、一昨年から国体へ導入されたことで“一般レベル”での関心も高まったのだが、多くの国内大会は、検体数も少なく、設備を含めた検査環境も充分とは言えない。
検体にかかる費用が大きく、実施しようにも踏み切れない、との声もよく聞く。事情は理解できるが、このあたりが、日本スポーツ界の貧しさである。
現代の流れのなかで、いつも取り残され、打つ手が遅いのは、この1点につきる。 旧態の枠にとらわれ、現状認識が乏しいため、大切な事態が後まわしにされるのだ。
“競技者教育”の面でも、最近、拙劣さが目立たないか。 オリンピック1点主義ともいえるマスコミに煽られて、トップゾーンの動きが、勝利とそれに伴う報償へ傾きすぎる。スポーツへの関心は高まっても、選手の“格”は、よほど自重しなければ、軽いものになる。重みは周囲と個人の自覚で備わる。
若いプロ野球選手が社会的なルールを守らなかった。 周囲の関係者は言った。「いいプレーを見せて、この問題を償って欲しい」。そうだろうか―。 |