世界陸上競技選手権(今夏8月、ヘルシンキ)の男子10000m代表に決まっていた選手が取り消され、新たな選考基準によるレースの結果、7月11日までに改めて選び直すという珍事が日本陸上界で起きている。 日本陸上競技連盟(陸連)は、6月6日の理事会でマラソンを除く男女39人の同選手権代表選手を選び、発表したのだが、このうち男子10000mは、事前に発表されていた選考基準とは異なる“視点”で決定が行われたとし、基準をクリアしながら振るい落とされた選手側から、すぐに異議が唱えられた。結果的にこの抗議が通ったことになる(6月17日、陸連臨時理事会)。 それはそれとして、日本のスポーツ界も変わってきたものだ。 ひと昔前なら、組織の体面にこだわって、このようなスピーディーな"修正"は考えにくかった。それがあっさり再選考を、となったのである。 スポーツ界の住人は、独得の論理で、ものごとを進める癖があった。とても、一般社会では受け容れられぬ姿勢がまかりとおり、それを「スポーツの美徳」と陶酔さえしてきた。 今回の場合、当該選手のコンディションを考えると、短い期間でのレース参加は、過酷な印象もうけるが、記録を競うスポーツの代表選考は、透明度が高くなければ、関係者、フアンの支持、信頼を得られない。そこが、戦略、戦術のさい配を預けられた監督の主観が尊重されるチームスポーツとの大きな違いだ。 オリンピックや世界選手権などのたびに、必ずといってよいほど、個人競技の代表選考をめぐるトラブルが生じる。 なかには、幼稚な勢力争いの産物といえる低レベルのケースもあり、そのたびに、スポーツ界の外側から失笑が起きる。 陸連の対応も分かりにくい部分はあるが、疑問の声を冷静に受けとめたのはよかった。 スポーツ界は、代表選手をめぐる問題に限らず、総てに、状況を明快に説明する意識を高めるべきだ。 情報の公開にしても、海外の諸機関と比べれば、質量ともに乏しい。 スポーツは時代とともに生きてこそ「文化」に仲間入りできるのではないか―。 |