スポーツの解説は本当にむずかしい。解説と関係なく、その場で、ウムをいわさぬ結果が出てしまうからだ。トリノ五輪のスピードスケート短距離のテレビ解説者に、堀井学さんが決まって、どんな名解説をやってくれるかと、大いに期待した。
堀井さんはリレハンメル五輪の500mで、たしか銅メダルをとった名選手。その経験を生かして、どんな解説をしてくれるのだろうか。結果は、いささか期待はずれに終わった。 日本の代表が岡崎朋美選手と及川佑選手の4位を最高に、ほかは次々に沈んでしまったから、解説のしようもなかったかもしれない。一番気になったのは負けた選手をかばいすぎる、という点だった。レースの始まりから終わりまでは、希望的観測のもとに選手を追い、負けと決まったら選手を何とかかばう、というパターンの繰り返しのように思った。それは、選手にかわって、負けたことの言い訳をしているように聞こえた。これはスポーツだ、もっとドライに、辛口であってほしかった。 オリンピック前の12月、「絶対金メダルを取ります」と豪語した500mの加藤条治選手は、とくに体調が悪そうでもないのに、なぜ6位に落ちたのか。ひとつ前の組の選手が転倒して、氷にかなりの傷跡が残り、その修復に10分かかった。その待ち時間が、微妙に影響したというのだが、それほどの繊細さを言うのなら、トリノに入ってからの生活、当日、宿舎から会場に行く時間、控え室でユニフォームに着替え、シューズをはいて待つ時間、氷上リンクに出て待つ時間・・・そういう全体的な時間の流れの中で、その10分間がどんな意味を持つのかを、自分の体験もまじえて解説してほしかった。 また、大言壮語したときの加藤選手の心理状態と、その10分間の心理状態をくらべて、その繊細ナイーブさにも言及してほしかった。大言壮語の裏にあるのは、自信なのか、不安なのか。10分間の心の揺れはどんなものなのか。 選手たちは速く滑ればそれでよし、という解説ではなく、心なのか体と技の混然一体の状態なのか、つまりは、魂というしかない、何やら判然としないようなものを、まるで産みたての柔らかい卵を大事に壊さないように、しっかり抱えて猛スピードで滑っているように見える。心理的重圧とは、そういうものなのではないのか、と素人の私は思ったりする。 私をはじめ多くのテレビ視聴者の目には、たしかに選手たちの姿は映っているのだが、実は大事なものは見えていない。随分むかし、金田正一さんが中日の郭源治投手をテレビ中継で解説したとき、「ごらんなさい、郭投手は熱いフライパンの中で、生きた海老が元気よくピンピンはねているような、何ともダイナミックなピッチングフォームでしょう」と言ったことがある。もっと以前、相撲の解説・玉の海さんが「突張りは腰から腕が生えていると思って突張らなければ、突き手が上ずって、相手にきかないんですよ」と言った。そのようなハッとする言葉で“見れども見えず”状態にある視聴者の目を、はっきり醒ましてくれるのが、よき解説者だと思う。勝負予想をして当てるのが、解説者の最大の仕事ではない。それは素人でも、何十秒か何分か後には、見ていれば分かることだ。 たとえ、オリンピックであっても、選手に対して、身内意識とか身びいきを排すること。選手ベッタリではなく、程よい距離感を保って、公平に選手を見ていく。余程のことがないかぎり、敗者のことはほんの少しでいい。勝者の内容の充実ぶりについて、細かな観察に裏付けられた批評がほしい。 もうひとつ、解説者に必要なのは、そのスポーツの数々のシーン、歴史的な記憶である。スポーツの記憶を補助線として使うことで、現在の選手たちの姿は、よりくっきりと浮かび上がるはずである。 精緻な観察力と、豊かな記憶をもった解説者の出現を待っている。それにしても、スポーツの解説という仕事は、まことにむずかしい。それだけに、やり甲斐のある仕事でもある。 |