東京新聞夕刊4月3日付の文化欄に、星野智幸さんという作家の「差別はなかったか−WBCがまとう暗いナショナリズム」という一文が載った。珍しいイチロー批判の文章である。さらにそれをもとにしたイチロー発言をめぐる日本社会批判である。それについての疑問を書いてみる。 WBC二次リーグで韓国に連敗を喫した後、イチロー選手が「ぼくの野球人生の中で最も屈辱的な日です」と発言したことをとらえ、「屈辱」という言葉は「相手から不当な辱めを受けたという敵意も含む。私はここに、相手を蔑(さげす)むニュアンスを感じずにはいられない」と星野さんは書く。 さらに「イチロー選手は『日本が三回も同じ相手に負けることは決して許されない』と述べた。ほとんどけんか腰とも言えるようなその口調が誰かに似ている、と思ったら、それは去年の夏、郵政民営化法案が否決され衆議院を解散したときの、小泉純イチロー首相の会見での話し方だった。そう、二人は似ているのである。闘志と感情をむきだしに己を鼓舞し、仮想敵を作り、勝利ののちは自画自賛する」「韓国という隣人の感情を想像しようとはしないデリカシーの欠如においても、両者はそっくりである」と書く。 そして結論は「私が最も異様に感じたのは、そのデリカシーの欠如を、日本人の多くが共有しているらしいということである」「イチロー選手の発言は、靖国参拝という国内事情にガタガタ口を挟む韓国への恫喝として、日本の視聴者の賛同を得たかのように、私の目には映りもしたのである」。 私の第一印象は、星野さんは「差別」問題過敏症ではないか、ということだ。スポーツも今やスポーツの枠を越えて、社会的問題として論評されるのが当たり前になってきた。それにしても、イチロー発言−小泉首相−靖国神社参拝−韓国というつなげ方は、いささか強引すぎる。人は誤解する権利がある、と誰かが言ったが、たとえそうだとしても、この連想のひろげ方は、政治的に偏向している、と思う。そのやり方は感心しない。 イチロー選手はここ数年、マリナーズというチームの野球体温の低下に、大いに悩んでいたように見える。野球はチーム競技である以上、チームの体温が下がってくると、天才イチロー選手といえども、長いシーズンを意気軒昂として戦うことは容易ではあるまい。そこでイチロー選手は、第1回WBCに転機を求めたのではないか。 「屈辱発言」は韓国のマスコミで、大きく取り上げられ、批判されていたようだ。それはそれでいい。この「屈辱発言」は、イチロー選手が自分自身に向けてのものだ、と私には感じられた。WBCをバネに、一層の飛躍を目指すイチロー選手の心意気が覗いた、と思っていたので、星野さんの“政治的”差別論議には驚いたのである。韓国への不快感を、イチロー発言で癒そうと思うほど、私たちはヤワではない。それはそれ、イチローはイチロー、である。 1人の人間を理解しようとするとき、補助線を引くように、別の人間をもってきて比較すると、より人間像がはっきりする。どんな補助線を引くか、そこに筆者の力量が問われる。今回は小泉首相を連想したところから、方向が大きくそれた。小泉首相や靖国問題は、イチロー選手と何の関係も無い。 スポーツはどんなスポーツでも「たかがスポーツ、されどスポーツ」である。「たかが」と「されど」のあわいにあるスポーツを、スポーツマンを、より慎重、ていねいに見、批評していきたいものだ、と思う。 |